壊れてるのが、わかっている人が増えている。

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上記文抜粋
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Z世代は「これまでの日本」を見捨てる・その1~この国をいまだに蝕む明治以来ほったらかしの「ねじれ」の数々

炎上、「✖✖ハラスメント」

昔から若者はこれまでの仕組みに反抗するものだけれど、結局はその仕組みに組み込まれていくもの。筆者の団塊世代は、1960年代、「体制」に抗議する学生運動を経験したが、卒業後はどこもかしこも終身雇用・年功序列の社会に絡め取られて身動きならず、どっぷりと既存の枠組みに浸かる羽目になった。大学でも役所でも企業でも「AはBより格が上」という格付け思想、「何やかや言っても、役人には逆らえない」という封建的志向、等々。

ところが今のZ世代は、気に入らないものには何でも「✖✖ハラスメント」と決めつけて、十把一絡げでゴミ箱に投げ捨てようとする。労働力不足の今、彼等の要求は通りやすい。しかし旧い体制を拒否するのもいいが、その後をどうするのか。日本はどういう経緯で今のようになり、どこがどう捻じれているのか、どうすれば建前と本音のずれがない、風通しのいい社会ができるのか。そのあたりを、もっと考えないと、Z世代はルールもなく、皆が自分の狭いタコツボに閉じこもる、まとめようのない社会を作ってしまう。

ここで、日本社会でのしきたり、組織の原理はどの時代に発して、どう変容してきたのか。それは、経済・技術の発展ぶりと比べて、どこがどうずれているのか、世界的に見てどこがおかしいのか、どこをどう変えていったらいいのか、といった点をまとめてみたい。

残る近代以前のつきあい方――自立より他立

明治維新から156年。それでも日本社会でのしきたり、通念は、明治以前のものを多く残す。それは、次の言葉に集約される。「お上は強い」、家柄、身分、格付け、先輩・後輩、滅私奉公、裁判より公衆の前での謝罪、裁判より示談、等々。

明治日本は西欧の学問、技術、制度は取り入れたが、その自由・自立・法治の精神は学ばなかった。政府や企業は先輩・後輩の序列、そして派閥で動かした。企業は官僚組織であるかのように動いている。個々人の能力と人格、そしてルールと法律で動く、欧米の社会とは違う。

我々は日本を先進国だと思っているが、日本人の感覚でものを言っても、いくらそれをAIで通訳させても、欧米の白人には理解できないことが多い。考え方が違うからだ。

今、終身雇用制は崩れ、転職するには個人としての能力・経験が重要になってきた。親の考え方、学校での教育等は、これにまだ追いついていない。

明治が生んだねじれ

明治は、日本という国の仕組みに、大きなねじれを残した。建前と実際の間にずれが生じている。

明治の「帝国憲法」は一見、立憲君主制を装って国会を開設したが、これは列強に不平等条約を改正させるための格好づけだった。「与党に当たる存在は即ち薩長勢力が形成する政府で、国会は野党のガス抜きのためにある。ここで物事を決めさせてはならない。国家のことは、明治憲法の定めるとおり、『天皇が総攬する』」と伊藤博文たちは思っていたに違いない。そして、個人は権利より義務を強調された。明治の国会が開かれる直前、1890年11月に文部大臣に下付(「下賜」と言うのだそうだ)された教育勅語では、天皇は国民を「朕の臣民」と呼んで、国家、天皇に尽くすべきことを説いたのである。

このねじれは今に残る。日本では今でも、国会での審議の結果、予算案が修正されたためしがない。予算案は政府が与党と事前にもんだ上で国会に提出し、そのまま通す。英国では、国王の出費を牽制するために貴族たちが議会を作ったし、今の米国では議会が予算を策定する建前でスタッフも大勢いる。日本では、「財務省の作った数百ページに及ぶ予算案を修正でもしようものなら、整合性を取るため別の個所も修正しなければならず、それは到底できない」という理屈で、政府と与党の権益を守っている。コンピューターの発達した現代では、修正、印刷は簡単だろうに。

現在の憲法の第41条には、「国会は、国権の最高機関」と書いてある。実際は、政府と与党が最高の権力を独占して野党の介入を許さないのだから、建前と実際はねじれているのである。

「翻訳文化」の弊

明治維新で、科学・学問の多くが、ヨーロッパから輸入された。初めは今の東大でも外国人教師が大勢いたが、欧米の書物は大々的に日本語に翻訳されるようになった。ギリシャのツキジデスも岩波文庫で読めるから、外人に「日本人はギリシャ・ローマの古典を知っている」と驚愕されるのだ。もっとも、「ツ・キ・ジ・デ・ス」と発音しても、外人には通用しないのだが。

これが戦後の日本でも続いた「教養主義」の伝統となる。岩波文庫の類は全部読破・暗記していて、日本の現実とは縁遠い、リベラリズムとかヒューマニズムをふりかざす。ヒュームとかミルとかを自分の親分に仕立てて、自分を日本での序列の先頭に置こうとする。マルクシズムも、それに悪用された感があって、今でもマルクスや資本論をふりかざして我々を手なづけようとする学者がいる。江戸時代の朱子学と同様、舶来の思想、学問をふりかざして、国内を仕切ろうというのだ。

これは、西欧近代の科学精神、合理主義とは馴染まない、教条主義、独善で、自分の頭で考えていないし、日本の現実にも合わない。使い物にならないのだ。

米軍による占領がもたらしたねじれ

日本の敗戦、米軍による占領には、プラスになる面もあった。まず、軍部による専制と言論統制がなくなり、労働組合も権利を与えられた。そして農地改革で大地主層を一掃し、多くの自営農を生み出したことは、今、東南アジア諸国の多くが農地改革ができずに大地主層の存続を許し、それが専制政治の温床になっているのを見ると、幸運だったと思う。そして大企業ではトップの連中が米軍によって追放されたことで、若手による活性化が実現した。女性には投票権が与えられ、その地位は少なくとも建前上は大きく向上した。

しかし、米軍による占領は、日本という国のあり方にいくつかの大きなねじれを残した。「何かおかしい」という、奥歯にモノの挟まったような違和感。それが今も残る。それは米国が悪いのではなく、米国が占領を終えたのにもかかわらず、我々が変えないで、変えられないでいるからだ。

まず、天皇の地位がそうだ。江戸時代、幕府に押し込められていた天皇は、明治とともに薩長勢力主導の新政府を正当化するために担ぎ上げられた。天皇を囲む公卿、役人たちは、以前はなかった宮中儀式を自ら創案さえして、天皇の権威を高めた。

太平洋戦争終結時、天皇をどうするかは、日米の間で大きな問題となった。天皇を退位させず、日本の統治機構を一つにまとめておく留め金として利用する、ただし統治の実権は与えない、というのが、当時の米国の立場。そしてこれは、彼らが作って日本側に示した今の憲法の案に盛られていた。

ここでは天皇は日本の「象徴」に過ぎず、実権を持つ国家元首ではない。日本国憲法は、国家元首を定めていない、世界でも珍しい存在になった。天皇は「象徴」なので、これは他の国の憲法では花や動物が務める筋のものなのだ。だから皇族はいつも悩む。「自分は何者なのか? 何をやったらいいのか? 『象徴』と言うなら、菊とか桜の花でもいいではないか」と。インドやドイツの大統領と同じく「国家元首」として認めるか、第一次大戦敗戦の責任を負わされて退位したドイツのウィルヘルム二世と同じく、退位していただくか、どちらかはっきりさせるべきだったのだ。

で、その日本国憲法では、国家元首はいない代わりに、主権は国民にあるとされる。「主権在民」だ。言葉としてはこの上なく、美しい。しかし、日本でものごとを決めているのは政府、つまり総理官邸、財務省等の有力省なのだ。これが合議制で動いているから、国民は、ものごとを変えるには、誰に何を言ったら動くのかわからない。政治家も役人も、一人ではものごとを変えられないのだ。選挙で政権政党を代えても、ものごとはさほど変わらない。国会の野党も、何を言っても結局多数で押し切られるのがわかっているから、与党の腐敗をついたりして、かっこうをつけているだけの時が多い。

こうした「なんちゃって」の国のかたちは、国民の心を蝕む。マスコミは政策・法案の妥当性より、政治家の心構えとか、うそを「言った、言わない」といった問題に集中して視聴率をかせごうとする。Z世代はこうした図を見て、大人たちの世界への不信感をつのらせる。

「日米安保」がもたらすねじれ

米軍占領は1951年9月に終わる。「サンフランシスコ平和条約」が調印されて、日本は主権を取り戻した。頸を切り落とされた鶏のように、その主権がどこにあるかは不分明になっていたが。そして当時は、1950年6月に始まった朝鮮戦争がまだたけなわの時だったから、米軍は日本を去ることに抵抗した。このため、サンフランシスコ平和条約と同時に、日米安保条約(第一次。正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)が結ばれることとなったのだ。これは、日本が独立しても米軍の駐留継続を可能とする条約で、米軍が日本を守るという条項は入っていない。

それでも、在日米軍は自分を守ろうとするので、それは日本を守ることと同じだ。しかも当時は米ソ冷戦たけなわで、ソ連は日本の左翼勢力をあおって天皇制を転覆し、権力を奪取することを狙っていたから、日本の上層部はあたかも占領の継続を正当化するような安保条約を呑んだのだ。独立・主権国家という建前の陰で対米従属というねじれは、この時以来続く。

1960年の安保条約改定で、日本は平等性の改善をはかった。「日本は基地を提供する。その代わり、日本の安全又は極東の平和及び安全に対する脅威が生じた場合には、日米双方が随時協議する」という趣旨の第四条が付加されて、安保条約は一応の双務性を帯びることとなった。米国への依存度をもっと減らしたいなら、「日本は米国の安全に脅威が生じた場合には……」という趣旨の条項を入れて、米国の安全保障に自らも貢献するか、日本の自主防衛力を増強して、在日米軍の削減を求めるか、どちらかをしなければならなかった。

だから安保条約は改定後も、片務性を帯びた。米国はことごとに、日本に米国の安全保障に対する貢献を求めた。それは在日米軍基地費用の分担から始まって、朝鮮やベトナムや中東などで米国が行う戦争に自衛隊を派遣しろという要求である。日本は、これらをすべてカネで解決する姿勢を取った。「自分で自分を守る自主防衛能力は不十分。だから米軍には守って欲しい。しかしその米軍を武力で助けることは勘弁してもらう」というのが日本の立場の基本。

自主防衛能力増強には反対し、日本を守ってくれる米国の悪口を言い、米国が対立している相手のソ連、中国と手を握ろうとする野党。これはねじれにねじれた構造で、筆者も外交官をやっていて一番いやだったのは、この点を外国人につかれることだった。

よく議論の的となる憲法第九条も、原案は米占領軍側が提示してきた草案に入っていたもので、本質は日本の武装解除に平和主義の哲学をまぶしたものなのだ。武力を持たなければ戦争が起きないのは確かだが、日本だけ武装解除されるのは危なくて仕方ない。

しかし憲法九条は日本人の多くにとっては、徴兵・重税なしにぬくぬくと平和を味わえるこの上なく良い取り引きに見えるから、日本を弱体のままにしておきたい周辺諸国の煽動を受けたものとは知らず、護憲運動に立ち上がる。筆者は、ロシアに勤務していた時、その昔のソ連時代、日本に勤務し、野党勢力に資金を渡していた人間から、直接話を聞いている。

安倍政権が2015年、いわゆる「安保関連法案」を採択し、その後、国防費の増額を図り始めたことで、状況はだいぶ変わっているが、後で言うように、今度は若者たちが自衛隊に志願しなくなってしまった。

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抜粋終わり



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上記文抜粋
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Z世代は「これまでの日本」を見捨てる・その2~なんちゃって政治、なんちゃって民主主義、なんちゃって近代的価値観

現実から遊離した日本国家主義とマルクシズム

戦後の米ソ対立は、日本社会に「保守・革新」という、現実から少し遊離した不毛の対立をもたらした。

一つは、戦前、インテリが移入したマルクシズムを旗に、既存の体制を否定する「革新」勢力の存在だ。戦後日本の言論界・学界は、マルクシズムを奉ずる者が一時は主流をなし、現実とは遊離した歴史観、国際情勢分析、経済分析を広めた。それでもマルクシズムを掲げる野党への支持は一定数を超えることがなく、そのため戦後の日本では長い間、自民党による長期単独支配が続くこととなった。

一方、一部のマスコミは、革新勢力の唱えるユートピア平和主義に傾いた報道を続けることで自主防衛力の増強を妨げ、結局は対米依存を余儀なくさせるという、米国に実質的に甘えた構造を助長した。大学の経済学部はマルクス主義経済学の専門家達が教授職を独占したため、数理経済分析で日本は後れを取った。

戦争、と言うか敗戦は、もう一つのねじれも生んでいる。第2次大戦前の日本の対外拡張を正しいものとし、天皇を頭にする立憲専制の復活を夢見る国家主義の存在だ。これは人数的にはごく少数なのだが、独善的で民主主義にはそぐわない。そして彼らは本来は、日本を絨毯爆撃し、原爆まで落として屈服させた米国に反抗するべきなのに、それをしない。ねじれている。

フィクションとしての民主主義・政党・選挙

今、日本で、自民党のウラガネ問題が大きくなっている。これは、政党・選挙といった民主主義の大道具が、日本では絵に描いた書き割りでしかない「何ちゃって民主主義」であることを示す。

歴史を振り返る。英米の議会と違って、日本の国会は西欧から移入されたシステムだ。戦後米軍が押し付けてきたものではなく、1890年、明治の帝国憲法で設立され、1925年には成人男子の全てに投票権が認められ、軍部が台頭してくる前には、「大正デモクラシー」と称せられる、政党政治の時代もあった。戦後、米占領軍は選挙権を女性に与えて、選挙の基数を一挙に倍増させた。

しかし投票権のベースが大きくなればなる程、民主主義を貫くのは難しくなる。と言うのは、人々は自分の生活で手いっぱいで、町内会の仕事すら避けるくらいだから、国家のことまで考えている余裕はない。消費税、年金、医療費以外のことは、国会・政府で適当にやってくれればいい、となりがちだ。

政党・議員も選挙民を一人一人訪問して話し込む時間はない。それに、戸別訪問は公職選挙法で禁止されている。だからどこかの国や人物を悪者に仕立てるとか、減税や何とか手当て支給の約束で、大衆の票を取ろうとする。これはもはや民主主義ではなく、ポピュリズム、悪くするとファシズムになる。

そして政党や候補者は、建設・輸送・医療・農業など、力は以前より弱くなったと言っても、侮れない集票力を持つ業界団体、労組、そして地元の県議、市議に票集めを依頼する。そこでは賄賂を渡さなくても、宣伝費、交通費、人件費等は払わなくてはならない。それについて法律が厳しすぎれば、ウラガネで対処する。それが今回のウラガネ問題の根っこだ。

インターネットやYouTubeで政策・政見を公表すれば、それで十分ではないかと言う人もいるが、そんなものを丹念に見て回る人間は滅多にいない。「選挙」という制度には無理があるのだ。

米国では選挙と称するものがやたら多い。移民国なので、選挙で皆の賛同を得たということが、決定を正当化するからだろう。筆者は米国の大学を卒業したが、50年経った今でも、筆者の自宅には、大学理事会の理事選挙の投票用紙が送られてくる。候補者についての詳しい情報もつけて。何も知らず、知ろうともしない者に投票用紙を送ってくるのは無責任だし、カネの無駄遣いだと思うのだが、大学にとっては「選挙の結果○○氏が第××期の理事に選ばれました」と書かないとかっこうがつかないので、これしかないのだろう。

かくて、選挙という近代民主主義の華は、その実効性が大いに怪しいものになっている。ここまでしてできている国会に意味はあるのか? 政府の役人が作り上げた法案を審議・採択することで、国民の審査を受けたということにできるからか? そんなことなら、今ではAIを使って、効率よく、安価にできるのではないか。問題は、政府の役人が書き上げたあらゆる法案、決定に意見表明するだけの暇を持った人間はめったにいない、ということだ。国会では一会期、つまり半年の間に百を越える法案を審議・採択している。その中には「特定土砂等の管理に関する法律案」など、国民の多くが関心を持たない問題もある。「国会などいらない。インターネットで国民投票すればいい」というように、簡単にはいかないのだ。

Z世代に捨てられる、これまでの日本
この頃の日本を見ていると、凍ったオリーブ油を冷蔵庫から出した時のように、縁からじわじわ融け始めている感がある。電車や街で見る学生・生徒は制服姿で昔通り。自分を囲む体制の中で安心しきっているが、スタート・アップの立ち上げ、国際NGOへの参加など、目を見張るような自主性と能力を示す連中も出てきている。

今までの常識はどんどん壊されてきた。東大法学部卒業で大銀行や企業の幹部、あるいは国家公務員というキャリア・パスはもう廃れつつある。社会の中での格付けが変わってきたというのか、若者は「意味があるのか、ないのか。面白いか、どうか」でキャリアを選ぶ者が増えているようだ。もちろん、3年生の時から就活に奔走して、これまでの日本に組み込まれていく方が大多数だろうが、先端部分は溶融してきたのである。

東大法学部は近年では定員割れ。学生は筆者に相談してきて、「外務省と日銀と外資とどれに行こうか迷っているんですが」と言う。その外務省や他の省庁では、ヘッド・ハンターが暗躍していることもあって、入省して10年も経たないうちに見切りをつけて外資などに転職していく者が危機的な数に達している。企業でも、戦後の滅私奉公を助長してきた終身雇用制は溶融しつつある。

そして戦後の日本人を洗脳してきた大マスコミも今、インターネット、YouTubeとの競争にさらされて存続の危機に立っている。グーテンベルクの活版印刷技術をベースとした新聞・雑誌は今、インターネットという新しいプラットフォームをベースとしたものに組み替えられつつある。

そして労働力不足の今、キツイ職業はいとも簡単に「捨てられる」。小中学校も、教師は勤務条件がきついので希望者が足りない。それは警官も自衛官も同様だ。

新聞も読まない。テレビも見ない。投票にも行かない。これまでの社会・政治・経済のインフラ、枠組みが、若者には何ともダサく、うそっぽく、非合理で不条理なものに見える。彼らはこれに「✖✖ハラスメント」という帽子を被せて炎上させる。

Z世代には「解放」されている若者が多い。野球の大谷はもちろんのこと、スキー・ジャンプで世界最高峰の一人、小林陵侑は22年2月8日の日経で、五輪には魔物がいるのではないかと聞かれて、「ぼくが魔物だったかもしれないです」と返した。この不敵さ。もちろん、厳しい練習に支えられているのだが、世界を悠々とわたっている。

ひょっとしてこれは、学力低下を招いたとして袋叩きにあった2000年代の「ゆとり教育」のプラスの産物なのではないか? 「日本人はもっと『個』を表に出さないと世界でやっていけない。自分で考え、表現し、動いていく人間を作らなければいけない」という趣旨で始まった「ゆとり教育」は、やっと本格化する態勢が整ったかというところで、学力の低下が問題となり腰砕けになったが、この世代の先頭が社会で活躍し始めたようだ。

ただ、ゆとり教育は、落ちこぼれも生んだ。自分というタコツボに潜り込んで、少しでもさわると「✖✖ハラだ!」と言って叫びたてる人間が増えている。こうした連中は、自分たちは何でも知っている、スマホで知ることができる、と思い込んでいるが、多くの場合は既成観念や思い込みをつなぎ合わせて、ものごとを黒か白に割り切るだけだ。

「近代」の溶融

この前AIについてのズームのシンポのQ&Aで、演者に質問してみた。「日本は、AIの開発で米国や中国に伍していけますか?」と。ChatGPT(これももう古いそうだが)などIT、ATのソフト関係で、日本は貿易赤字が拡大しているので、聞いてみたのだ。

しかし若い演者はつぶやいた。「この方は国家を単位にして考えておられる。我々、開発エンジニア達は国籍を意識しない。ちょっと次の質問の方にいきましょう」と。これは筆者にとって新鮮で、「ああ、IT関係の若者はこういう考え方をするのか。米中対立も、尖閣も、関係ないのだな。そういうのはジャマなんだな」と思った次第。

近代の世界は、主権国家を基本単位として回ってきた。ところが、その国家が溶融する兆しを見せている。今後の世界で、何が基本単位として機能するのか、筆者にはわからなくなっている。

国家に加えて、「近代」を支えてきた価値観も、建前と現実の間に差があることを露呈しつつある。つまり我々が進歩の目標として掲げてきた「自由」、「民主主義」、「市場経済」は、見直しを必要としているのだ。

米国は2003年、中東に自由・民主主義を広げてやるのだと見栄を切ってイラクに武力進攻し、フセイン大統領を縛り首にしたが、その後のイラクでは自由・民主主義どころか、混乱と困窮が広がった。自由は強い者しか享受できないし、民主主義は格差の小さな社会でしか成立しないことが露わになった。そして先進諸国は今、中国に倣って半導体やEV産業に政府補助金を大盤振る舞いしているが、これは市場経済、自由競争の原則を踏みにじり、経済の活力を殺ぐものである。

「地球人」の登場

今の東京を歩いていると、不思議な気分になる。日本の先端部分は多国籍化と言うか、地球人化しつつある。以前は目立つのをはばかって、電車の中では小声で話し合っていた中国人も、この頃は本来の大声で話をするようになっている。それも、しっかりしたビジネスマン風の男がスマホで話していたりする。彼らは日本とか中国を別に意識することなく、自分のビジネスを東京の通勤電車の中でやっているだけなのだ。

金髪・青い目の外人観光客も観光地では随分傍若無人な振る舞いも見せているようだが、東京では見たことがない。彼らは、幼時から好きだったマンガ、アニメのヒーロー達の故地にやっと来ることができた喜びと興奮を漂わせ、彼らよりずっときちんとした身なりの日本人乗客たちに気を使って、それでも自由に話し合って降りていく。

こうした若い連中は、知識、意識からして、国籍がもうない。一種の「地球人」化しているのだ。そして、こうした意識と知識水準の高い連中ならば、どんどん日本に定住してもらえばいい。ただそういう時には、日本人の多くは下働き的存在に落とされているだろうが。

他にもねじれはいろいろある。企業にも嘘が多い。株式会社などと言うが、実際は仲間内に株を持ってもらったり、株主総会をできるだけ問題なしに乗り切るのが総務の腕の見せ所だったり、金融は銀行に依存して、経営指南まで銀行から得ていたり、何のために株式を発行しているのかわからない企業が多かった。

これらのねじれを、Z世代が全て解決することは期待していないが、「✖✖ハラ」でこれまでのルールを全否定することはやめて欲しい。人間の権利、自分・他人の権利、そして生活水準の一層の向上。この基本からは外れないで欲しい。

地球人、AIが作る社会はどのようなものだろう。日本はもう、見本を外国から移入するわけにはいかない。昔の教養主義はもう成り立たない。日本は自前の価値観、自己流の目標を設定して行かないといけない。

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抜粋終わり

まあ、「天皇」ってのは、「中国の皇帝」「道教の仙人」「バチカンの法皇」のチャンポンの邪鬼ですからね。

独自性っていうか、、「自分で考える・・・今や昔の知恵なり知見を道具にして・・・」て大事だよ。

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