インデアン虐殺・・・なら当然の結末だった…西洋近代文明の当然の結論。

より

上記文抜粋
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No. 2283 アメリカ流の戦争

投稿日時: 2024年9月28日

The American Way of War

by Thomas DiLorenzo

戦争の目的は「兵士の絶滅ではなく(それは問題の最も小さい部分に過ぎない)、人間の絶滅である」

― 1862年7月31日、シャーマン将軍からシャーマン夫人への手紙。

もし南軍が勝利していたら、彼らは自分たちの行動を正当化していたことだろう。すなわち、リンカーン大統領と北軍最高司令部の全員を、戦争法違反、特に非戦闘員に対する戦争行為を行ったとして絞首刑にしていただろう。

―リー・ケネット著『マーチング・スルー・ジョージア:シャーマン将軍の作戦における兵士と市民の物語』(2001年)286ページより。

著名な軍事史家B・H・リデル・ハートは、200年以上にわたってヨーロッパを支配してきた文明的な戦争の規範が初めて破られたのは、リンカーンによる南部市民の生活の破壊を指示した政策によるものだったと指摘した。

– チャールズ・アダムス著『人類の歩みの中で』 (2004年)、116ページ。

『人類の歩みの中で:南部連合の分離独立を主張する』の中で、チャールズ・アダムスは、1863年に最初のジュネーブ戦争条約が締結され、その後さらに3つの条約が締結され、最後の条約が1949年に締結された経緯を述べている。1863年の条約は、当時理解されていた戦争法を体系化したものであり、次のように規定している。1)無防備な都市や町を攻撃することは戦争犯罪である。2)民間財産の略奪や無差別な破壊は戦争犯罪である。3)民間人から奪うことができるのは必需品のみであり、それには代価を支払わなければならない。一部の歴史家は、これらの法律は4世紀にわたる戦争法であり、リンカーン政権はこれをすべて破ったと主張しているとアダムズは記している。言い換えれば、リンカーン政権の不法行為が、20世紀の軍隊による残虐行為の土台となった。

ほとんどのアメリカ人は、シャーマンの「戦争は地獄だ」という自己保身の決まり文句を繰り返すことによってリンカーン政権の戦争犯罪を無視するように教えられてきた。しかし北軍によるレイプ、殺人、拷問、放火、民間人が居住する都市への爆撃の明確な歴史的記録が残っている。例えば、ウォルター・ブライアン・シスコ著『南部民間人に対する戦争犯罪』(2021年)、シェルビー・フート著『南北戦争』(1958年~1974年)、ジェフリー・アディコット著『北軍の恐怖』(2023年)、カレン・ストークス著『シャーマンの進軍路に暮らすサウスカロライナの市民』(2012年)などだ。

それらを読むと、ミズーリ州では殺人、放火、窃盗が非常に多く、戦争が終わるまでに州の広大な地域が人が住まない状態になっていたことがわかる。私の以前住んでいたサウスカロライナ州ブラフトンを含む町全体が、北軍「兵士」によって民家がすべて焼き払われ、焼き尽くされた。北軍は放火魔、強姦犯、泥棒の軍隊だった。

1863年8月、サウスカロライナ州チャールストンは南軍によって守られていなかったため、6ヶ月にわたる砲撃が始まり、22,000発以上の砲弾が市街地に撃ち込まれた。100年経っても不発弾が見つかっていた。

シャーマン将軍は、1864年秋、女性、子供、乳幼児、高齢者だけしか残っていないアトランタに4日間にわたる砲撃を命じた。砲兵たちは人の住居を見つけるとそこを狙った。1日で5,000発もの砲弾がアトランタの市民に降り注いだ。死体が街に散乱し、シャーマンはそれを「美しい光景」と呼んだ。冬が訪れる頃には数千人の生き残った住民が家を失った。

このような戦争犯罪は、リンカーン率いる北軍が戦争の間に彼の指示と十分な認識のもとで犯したものである。プロイセン軍がシャーマンの片腕であったフィル・シェリダン将軍を招き、アメリカ流の戦争について講演を行った際、プロイセン軍はシェナンドー渓谷でシェリダン将軍の指揮下で起こった殺人、強姦、略奪、放火についてシェリダンが語った内容に衝撃を受け、嫌悪感を抱いたと言われている。

ロバート・E・リーがバージニア軍を降伏させてからわずか3か月後、シャーマン将軍はミシシッピ川以西の全地域を管轄する「ミズーリ軍管区」の指揮官に任命された。 彼の任務は、実質的には平原インディアンに対する大量虐殺キャンペーンを展開することであり、彼はその任務を25年間遂行し、女性や子供を含む約4万5000人のインディアンを殺害し、残りのインディアンを「保留地」と呼ばれる強制収容所に収容した。1891年にシャーマンは死んだが、彼は軍がすべてのインディアンを殺さなかったことを悔やんだ。「良いインディアンは死んだインディアンだけだ」という虐殺的発言で知られている。彼がそれを行ったのは、「(政府助成金を受けた)鉄道敷設のため」(彼は鉄道会社の主要株主)だったと語ったことがある。

フィリピン反乱(1889年)では、米軍が約20万人のフィリピン人を殺害し、民間人100万人が死亡したとの推計もある。スペイン・アメリカ戦争でも数千人の民間人が虐殺された。

これらのことが頭に浮かんだのは、最近、トーマス・グッドリッチ著の2010年の本『ヘルストーム:ナチス・ドイツの死、1944年~1947年』(2014年)を見つけたときだった。(2015年のYouTube動画「地獄の嵐:ドイツの大量虐殺」もある)。この本は、20世紀の軍事技術と組み合わさったアメリカ流の戦争(ロシア、イギリス、ドイツが模倣)の結果について書かれた読みづらい本である。

グッドリッチは、1925年に著した『我が闘争』の中でヒトラーは、もし自分が政治権力を手に入れることができれば、ドイツから「ユダヤ人の影響」をすべて排除すると約束していたことから書き始めている。当然これは「世界中のユダヤ人を警戒させた」… 影響力を持つユダヤ人実業家たちは、まずドイツ経済に対する国際的な不買運動を組織し、そしてもちろん国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を非難した。それはすぐにボイコットの呼びかけ人によって「残酷で野蛮な獣」、つまりすべてのドイツ人に対する「聖戦」と呼ばれるようになった。

グッドリッチは、ハリウッドの脚本家ベン・ヘクトが、「ドイツ、ドイツ主義、ドイツ人」という形で「癌」が世界に蔓延していると書いたことを引用している。ハリウッドの映画脚本家は「彼らは殺人者であり、卑劣で無謀だ」と述べた。「ドイツは滅びなければならない」とセオドア・カウフマンは1941年に出版した同名の著書で主張した。彼は戦後、「ドイツ民族とその担い手」という病を根絶するために、「ドイツの男性と女性はすべて不妊手術を受けるべきである」と論じた。ニューヨーク・タイムズ紙はこれを「センセーショナルなアイデア」と称賛したが、ワシントン・ポスト紙は「挑発的な理論」と評した。

フランクリン・D・ルーズベルトは、財務長官ヘンリー・モーゲンソーの名を冠した、いわゆる「モーゲンソー・プラン」を支持した時にこうした「絶滅」や「大量虐殺」の呼びかけを公式なものとした。この計画では、戦後のドイツの完全な破壊が求められ、産業の解体や広大な土地の没収などが求められた。この計画では、その結果として5,000万人のドイツ人が餓死すると推定されていた。彼らの希望は、「2世代以内にドイツは消滅するだろう」というものだった。このような野蛮な提案に衝撃を受ける人々に対してモーゲンソーは、「彼らがそれを求めたのだ。なぜ私が彼らの国民に何が起こるかを心配しなければならないのか?」と怒りをあらわにした。モーゲンソーは、死後の世界で何が起こるかを心配していなかったことは明らかだ。

ウィンストン・チャーチルもこの計画を支持し、言うまでもなくスターリンも同じだった。グッドリッチは、ヒトラーは「レーニン、トロツキー、そしてその他多くのロシア人(共産主義)革命家がユダヤ人であった」ため、この戦争を「ユダヤ・ボルシェビズム」に対する戦争と考えていたと主張している。

ヘルストームは、英国空軍(RAF)と米国空軍が無防備なドイツのドレスデン市街に大量の爆弾を投下した絨毯爆撃を生き生きと描写している。文字通り数千機の爆撃機がこの都市に燐弾を投下し、地獄のような火の海を作り出し、死体をほぼ瞬時に溶かし、文字通り生きたまま焼き殺した。街全体が「巨大な光の波」と表現された。至る所に数千の死体が散乱し、焼けただれて腐敗した肉の悪臭が鼻をつき、生き残った人々は吐き気を催したと言った。ドレスデン動物園の動物たちも、地上で捕らえられた人々とともに焼け死んだ。

人々が市外の広大な公園に逃げ込むことを知っていたため、英国空軍は公園に何トンもの高性能爆弾を投下した。 その後、アメリカ爆撃機が公園内の市民を機銃掃射した。ドレスデンの人間を皆殺しにするのが目的であるかのように、この光景は連日繰り返された。 グッドリッチは、ドレスデンだけで40万人の民間人が死亡したと推定している。

無防備な市民に対するこの大量虐殺は、戦争末期のドイツのハンブルクやその他の多くの都市で軍事的抵抗がほとんど、あるいはまったくなくなった後も、嬉々として、そして悪魔的に繰り返された。「ドイツ民族が2千年かけて築き上げてきたものが、敵国の手によってわずか6年で破壊された」とグッドリッチは結論づけている。

グッドリッチは、スターリンがロシア人捕虜を裏切り者とみなした理由について、スターリンの命令は「死ぬまで戦え」というものだったからだと書いている。戦後、アメリカ当局は「オペレーション・キールホール」により、スターリンの支配を強化する手助けをした。この作戦により、何千人ものロシア人捕虜がスターリンのもとに送り返された。「コサック民族全体がソビエトに引き渡された。数日のうちに、そのほとんどが死んだか、あるいはシベリアへの片道切符を手に入れ、家畜車に押し込められて強制労働に駆り出された」。500万人以上のソビエト市民がスターリンに引き渡され、「拷問と奴隷労働に引き渡された」。アイゼンハワー将軍は、捕虜をスターリンに引き渡す前に収容する強制収容所の管理をすべて監督していた。グッドリッチは、収容所で意図的に餓死させられた捕虜が数千人いたと書いている。

新たに奴隷所有者となったのはスターリンだけではなかった。「フランスが戦利品の一部として奴隷を要求した際、アイゼンハワーは60万人以上のドイツ人を東部に移送した」。そして、「アメリカ人と同様に、フランス人も捕虜を飢えさせた」。英国でも数十万人の捕虜が「事実上の奴隷と化した」。最終的に、少なくとも80万人のドイツ人捕虜が、戦後、アメリカとフランスの死の収容所で死亡した。

『ヘルストーム』の記述で最も胸が悪くなる部分のひとつは、数年にわたって行われたドイツ人女性や少女に対する集団レイプの描写である。ここではその生々しい話や詳細については書かない。加害者は主にロシア人であったが、アメリカ兵たちは、「レイプは必要ない。飢えと貧困に苦しむドイツ人女性たちは、キャンディーやパン数枚で簡単に買収できる」と自慢した。「食べ物やチョコレート、石鹸さえあれば、レイプは必要ないようだ」とアメリカ兵がごく当たり前のように語ったとしている。「1945年の夏までに、ドイツは世界最大の奴隷市場となり、セックスが新たな交換手段となっていた」。

繰り返しになるが、これは胸が悪くなる嫌な本だが、1860年代に世界に紹介され、その「成功」により20世紀を通じて世界中の殺人暴君とその宣伝機関に模倣されたアメリカ流の戦争の実態を理解するために読むべき本である。戦争犯罪とその「目的のためには手段を選ばない」という論理は今日では日常茶飯事となっている。そのため、ガザ地区で現在行われているイスラエルのジェノサイド戦争を正当化するプロパガンダを展開する人々は、ガザ地区をドレスデン化し、その後、何千人もの女性、子供、乳児を殺害することを平然と主張しているのである。

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抜粋終わり

それらを読むと、ミズーリ州では殺人、放火、窃盗が非常に多く、戦争が終わるまでに州の広大な地域が人が住まない状態になっていたことがわかる。私の以前住んでいたサウスカロライナ州ブラフトンを含む町全体が、北軍「兵士」によって民家がすべて焼き払われ、焼き尽くされた。北軍は放火魔、強姦犯、泥棒の軍隊だった。

1863年8月、サウスカロライナ州チャールストンは南軍によって守られていなかったため、6ヶ月にわたる砲撃が始まり、22,000発以上の砲弾が市街地に撃ち込まれた。100年経っても不発弾が見つかっていた。

シャーマン将軍は、1864年秋、女性、子供、乳幼児、高齢者だけしか残っていないアトランタに4日間にわたる砲撃を命じた。砲兵たちは人の住居を見つけるとそこを狙った。1日で5,000発もの砲弾がアトランタの市民に降り注いだ。死体が街に散乱し、シャーマンはそれを「美しい光景」と呼んだ。冬が訪れる頃には数千人の生き残った住民が家を失った。

これは、第三者から見たら

「黒人奴隷を人間扱いしない」南軍

「敵国の市民は人間扱いしない」北軍


その違いにすぎず、

外道と糞の殺し合い・・・・


そもそも西欧近代文明は・・・


あの偉大なるカント先生(Immanuel Kant)も、大学で人類学なるものを、黒人は生まれながらに「理性」が不足しているので、白人が使役したり、奴隷として役に立たせるのは、むしろ彼等のためであり理に適っている、という具合に講義していました。
そういう偉大なる西欧の知性が「人間」や「人間性」について語るとき、非西欧人は眉に唾したうえで、拝聴したほうが良いだろう、ということですね。

「自分中心の合理主義」が、「彼ら西洋文明の合理主義」ですから、、、

なんせ、インデアンを殺しまくったアメリカ人・・・アジアアフリカ・南米を支配した西洋人が現地人を殺しまくり奪いまくったのも事実。

宗教・哲学からして「人でなし」の要素がたっぷりなのが「西洋近代文明」なのですは。

で、国家のトップが、毎度イギリスに留学~洗脳に言っているアホの帝国日本。。

そりゃ、日本人など、その国家の為政者・指導層が何とも思ってないのは明白ですよね。

天皇を根絶して 日本人を救う

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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