男が「腐った女」になると、滅びる・・・・・。。


より

上記文抜粋
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最悪の女性原理の時代

原理の女性化がある。両性にとって女なるものがいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)

ーーエリック・ロランはミレール派、つまりフロイト大義派と呼ばれる主流ラカン派のナンバーツーであり、次のジャック=アラン・ミレールと事実上、同じことを言っている。

今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕
私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…) nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021)

つまりファルスとは家父長制であり、現在のファルスなき世界が女なるものの世界、女性原理の時代である。そして女性原理の別名は母性原理である。

家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的母権制(家母長制)の青白い反影にすぎない[the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system] (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)

このバーハウの言っていることは次のラカンの発言に基盤がある。

エディプスコンプレックスにおける父の機能は、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)、母なるシニフィアンの代理シニフィアンである[La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être un signifiant substitué au signifiant, c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation, le signifiant maternel. ](Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)

ミレールで確認すれば次の通り。

全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある[La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère,](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)

ラカンにとって女なるものの基盤は母なる女にあるのである。

(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

そしてファルスなき女性原理の世界は学園紛争を契機にエディプス父の失墜に伴って始まった。

父の蒸発 [évaporation du père](ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜[déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971)

21世紀の現在、父なき世界が極まっている。それは世界の指導層的政治家の顔ぶれを思い浮かべれば一目瞭然とする。これが先のミレール曰くの《私たちは最悪の時代に突入したように見える》の意味するところである。

ここで注意せねばならないのは、ラカンは家父長制の復権を願っていたわけではないことである。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで[le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

これは、支配の論理に陥りがちなエディプス的父の名は迂回すべきだが、父の機能は是非とも必要だということである。

中井久夫は「母子の時間、父子の時間」(2003年)にて、母なるオルギア(距離のない狂宴)と父なるレリギオ(つつしみ)を対比させているが[参照]、ラカンの父の機能とはこの父なるレリギオに近似する。そして女性原理の時代とは父なるレリギオの支えのない母なるオルギアという距離のない狂宴の時代であり、これが現在、最悪の時代を齎している。


中井久夫は天才宗教史学者カール・ケレーニイの名を出しつつ、この「レリギオ」に比較的早い時期から触れている。

ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)

この父なるレリギオの別の言い方は《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)であり、この権威はアーレントの云う権威に近似する。

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する[Authority implies an obedience in which men retain their freedom](ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)

最後に確認しておけば、ドゥルーズ&ガタリのアンチオイディプスーーオイディプスを打破すれば自由があるーーとは、精神分析的には、つまりフロイトが提唱した《文化共同体病理学[Pathologie der kulturellen Gemeinschaften ]》(『文化の中の居心地の悪さ』)観点からは、大きな間違いであり、家父長制を打破すれば母なるオルギアが赤裸々に露顕してしまうのである。

パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズとガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。
A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté. (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)


※附記

父性原理とは権威、母性原理とは権力に関わる。

重要なことは、権力と権威[power and authority]の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。
It is important to try to understand the difference between power and authority. From a lacanian point of view, power always concerns a dual relationship, meaning: me or the other . This supposedly equal relationship amounts to a bitter competition in which one of the two has to win over the other. Authority on the other hand, always concerns a triangular relationship, meaning me and the other through the intermediary of a third party.
(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Social bond and authority, 1999)

権威と権力の相違は三項関係と二項関係の相違である。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状態(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。a dualistic logic where there is a choice of either me or the other, and thus points to the fact that the oedipal situation has not been worked through symbolically. (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)

現在の世界の構造は二項関係になってしまっている。つまり権威なき権力の世界である。これが事実上のファルスなき女性原理の世界を意味する。

集団的西側なる「米国とその愚かな同盟国」」で掲げたジェフリー・サックスの言葉の一部を再掲しておこう。

◾️Excerpt from remarks by Professor Jeffrey Sachs, American economist and academic, in an interview with Mike Billington, May 15, 2024.


米国は世界を本当にはっきりと分断している。というのは「米国は我々の味方か、それとも敵か」と言っているのだから。繰り返しそう言っている。2003年以降のイラク戦争についても、今もウクライナとロシアに対する制裁についても。制裁を課すにあたっては、われわれ米国に賛成するか反対するかのどちらかなのだ。
The U.S. really has starkly divided the world, because the U.S. has said, 'You’re with us or you’re against us.' It said that repeatedly. It said that with regard to the Iraq war in 2003 and onward, and it says it now with regard to Ukraine and the sanctions against Russia.
You’re either with us applying these sanctions or you’re against us.

ーーまさに権力の時代の二項構造を指摘している。

柄谷行人の『世界史の構造』の核心図自体、ヘゲモニー国家が空欄になっている時代が権力の時代である。


そして曲がりなりにも英国あるいは米国が権威として機能した時代があった。つまりこの図は、権力と権威の交代を示すスキーマと見なすことができる。

ここでは、上の『世界史の構造』の核心図の簡潔な説明として読める、近著『力と交換様式』の文を抜き出しておこう。


第二次大戦後の世界は全体として、アメリカのヘゲモニーの下で“自由主義”的であったといえる。それは一九世紀半ば、世界経済がイギリスのヘゲモニー下で“自由主義”的であった時期に似ている。しかし、このような世界体制は、一九七〇年代になって揺らぎ始めた。一つには、敗戦国であったドイツや日本の経済的発展とともに、アメリカの圧倒的ヘゲモニーが失われたからである。

しかし、一般に注目されたのは、一九九一年にソ連邦が崩壊し、それとともに、「第二世界」としての社会主義圏が消滅するにいたったことのほうである。このことは、「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)として騒がれた。愚かしい議論である。このような出来事はむしろ、「歴史の反復」を示すものであったからだ。

そのことを端的に示すのは、一九八〇年代に、それまで「第一世界」を統率し保護する超大国とし“自由主義”を維持してきた米国が、それを放棄し“新自由主義”を唱え始めたことである。つまり、ソ連の「終焉」より前に、資本主義経済のヘゲモンとしての米国の「終焉」が生じたのだ。それは、一九世紀後半にイギリスが産業資本の独占的地位を失い、それまでの“自由主義” を放棄したこと、 すなわち、 “帝国主義”に転化したことと類似する。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)

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抜粋終わり

「孫子」の信者である私は、「権威」を糞であると思っている・・ていうか「内実の無い権威」は糞って追加するけど。

その「権威糞教」の私がいうのもなんだけど、「天皇」ってのは実質「権威」でない。権力なのですは。

天皇には、、「内実」になる「道徳律」が無い。暴力・権力・富が、それを支えているのだからね。

前の戦争や戦前に、軍の高級幹部や国家の指導層の高位の連中は「天皇」を「駒」として扱っていたし、そのようにしか思ってない。当然のかれらの先輩である維新志士どもも「駒」として天皇を扱っていた。

天皇と言う「権力」が「権威」の実質だったわけで。「権威を与える権力」しての天皇だ。

私自身は、思い出すのが「国防婦人」として、まあ「男社会」で驥足を伸ばしえない女性が「息子」を出汁にして地域社会での名誉を得ようと「ママ友殺人」マガイな権力闘争也密告が、戦中に行われていたこととか思い出す。
あと昭和天皇の母の「貞明皇太后」などこの「腐った女の権力に対する思想」の典型ですよね。

「ママ友」同士の「マウントの取り合い」など、「腐った女」の典型的態度で有るよね。
「男社会」も十分に権力闘争・権威の確執は、あるが、多くは「ママ友仲間の馬乗りの試合」よりも、マシである。
それほど激しくなると自分の存在する組織が破壊される=元も子もないのがわかるからね。
女性もわかる人は多いが、それを理解できない人、頭に血が上ってそれが消えてしまっている人が、多いからね・・・

「腐った女」の思想で育った~大日本帝国というクソガキと糞婆の社会~の後で、それを母として育った子供たち・・が、マトモであるのは大変なのである。

その辺の男女の塩梅は、易が旨い事表していると思う。あえて「女性原理」を抑制的に書いている面もあるとは思うが「フェミニスト易」ってあるし、そもそも法華経や老荘思想で易を解釈できるのだから、不当では無いし。

意外と易は、「謙虚」「忍従」「待つこと」とか守成的・受け身的な美徳を称賛するところが多い。

その表現を「牝牛」「牝馬」といっているし。

易で「陰」は物質的なモノを表す。まさに「マテリアリズム~物質主義」とは、陰の思想の暴走版であって、群龍相食む~「龍が野で戦い、血を流している」ってことになるのは当然で。



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