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飽き性の新年の目標の立て方

年末、そして新年とくれば、心を新たに、目標を立てるという人も多いと思う。僕自身は、目標があったほうがより充実した一年になるのだろうな、と思いつつも、この一年の目標、というものをこれといって立ててこなかった。が、年末年始に祖父母の家に行ったときには、祖父に、今年の目標を聞かれることも多かった。

小さいころから、一年単位で目標を立ててこなかったし、祖父に聞かれたときにも、「勉強を頑張る」くらいであしらっていた記憶があるから、目標を立てるのは難しい。というか、学生である段階では、毎年何らかの大きな変化が起こっていくから、目標をわざわざ立てなくてもそれなりに頑張って生きていかなければならないという面もある。社会人になったら目標を立てたくなるのかもしれない。

そんな風にして、新年の目標は立ててこなかったが、将来の夢というものはある程度持ってきた。そして、かなりの回数それが変わった。

一番最初に、「これになりたい」と思ったものは、中学生のころに思った、作家だったと思う。

それまでにも、将来の夢を書く作文とか寄せ書きとかはあったのだが、それはひねり出した目標であって、本当になりたいと思っているわけではなかった。

実際、小学生のころには作文を書くときに、警察官になりたいと書いた記憶がある。本当に警察官になりたかったわけではない。悪い人を捕まえたいという気持ちすらなかった。ただ、警察官と書いておけばとりあえず作文を切り抜けられるだろう、と思ったことを覚えている。

小学生のころから、作文はこなすものであったし、よく、先生に、というよりももっと漠然と、大人に好まれるようなものを書こうとしていた感じがする。優等生を演じていた、というと聞こえは悪いが、「良い子」であることが美徳とされる小学生時代には、大人の顔色をうかがうような文章を書いていたと思う。

先日も、家を整理していた際に、小学生か中学生時代の作文が発掘された。読んでみても、ここで紹介する必要のないくらい、決して面白くはない文章だった。もちろん、小中学生の作文に面白さを求めているわけではない。ただ、そんな作文を書いたときの、大人に嫌われないような当たり障りのないことでマスを埋めようとしていたときの記憶が一瞬思い出されて、なんとも息苦しい気分になった。

とはいえ、大学生になった今、大学のレポートやなんかで、面白い、とがった文章を書いているという自覚はない。今でさえ、当たり障りのない文章でマスを埋めようとする気持ちに変わりはない。ただ、別に息苦しくもない。それで単位がもらえるのであれば、最低限単位がもらえるような文章を書くだけだ、という気持ちでしかない。小中学生のころだって、これで作文の課題を終えられるなら、という気分でつまらない文章を書いていたから、根本の気持ちにも変わりがないだろう。ただ、後から見返してみて勝手に息の詰まる思いをしているだけだ。

そんな気持ちがあったからなのか、中学生のころに、自由に文を書く作家になりたいと思ったのかもしれない。とはいえ、そのころから、自由に文を書きたいと思ったり、実際に自分で小説やなんかを書いたりしたわけではなく、ただ単にあこがれを持っていたというのが一番正しい。作家のイメージとしては、自由に活動して見聞を深めたり、本の内容を考えたりして、気ままに本を書いている、というものだった。本当に作家がそういう人たちなのか、ということを今考えてみると、そうとも限らないのではないか、と思う部分はあるが、売れっ子の作家であれば、そんな風に自由に思考をはばたかせながら本を書いているのかもしれない。

だがこの夢は、うっすらと自分の中に宿ったまま、ずっと形にする努力をしてきたわけではなかった。事実、大学生になった今こうして文章を書いているのが、その夢に向けた第一歩ですらある。

とはいえ、この夢だけを追い続けていたわけでもない。将来の夢は、何回か変わってきた。

たとえば、裁判官。

良心に従って判断を下す、という職業が魅力的に映り、なりたいな、と思った。今でもなってもいいなと思うが、今いるのは法学部ではなく、司法試験を突破しなければならない。そこまで努力ができるほどに裁判官になりたいわけではないので、裁判官になることはないだろうと思う。

または、パイロット。

自分って、何が好きなんだろう、と考えたときに、上から景色を眺めることは無条件に好きだな、ということに行き当たった。それは、立場的に人を見下すというのもあるし、物理的に、飛行機やらタワーやらから景色を見るのは興奮する。パイロットは、大卒から企業に就職すればなることは可能だ。だが、目が良かったり、トラブルになったときに冷静に対応する度量だったりが必要だし、何より、上から見下ろすのが好きというだけの理由で、何百もの人の命を預かって飛行機を飛ばすというのはいささか責任感に欠ける。ただ、仕事としては魅力的だし、大型機の機首とかの型にこだわらなければなれる可能性は十分にあるので、考えていきたいとは思う。

さらには、研究者。

大学に入る前、そして入って少ししてからも、大学院に進学して研究者になろうと思っていた。しかし、いざ学問を知っていき、研究に近いことをやってみると、一つのことを言うためにしなくてはならない、面倒なことが、あまりにも多いということを知った。資料を探すとか、一つのことを試行錯誤してみるとかいった面倒なことを、ある程度楽しんでやれるかな、と思っていたが、全くそんなことはなかった。結局、今は大学院に進学したくない、というところまで嫌になっている。

ついには、YouTuberになりたいと思うこともあった。これは、誰しもが思うことかもしれない。自由に生きているように見える彼らを見て、こんな風に生きられたらいいな、とあこがれてしまう。しかし、自分が有名になり稼ぐというビジョンが見えず、本気にはなれなかった。今後良い案が浮かんだらやってみるのも悪くはない。

このほかにもいくつかなりたい職業が自分の中で入れ替わった。なんというか、飽き性なのだと思う。一つのことに打ち込むというのはできないのかもしれない。小中高と、やってきたスポーツは違った。本も、映画も、ゲームも、途中で飽きて、読んだり見たりやったりするのをやめてしまうことがかなりある(もちろん、おもしろければ最後まで消費する)。

だから最近では、これになりたいな、とか、やりたいな、とか、興味を持ったことがあっても、どうせ少しすれば飽きてしまうんだろうな、という冷めた気持ちもいつも混ざりこんでくる。

そんなわけで、もし、新年に「これをやるぞ」という新年の目標を立てたとしても、数か月、もしかしたら一か月もすればそんな目標も忘れてしまうのだろうな、という気がする。挫折するというのとは違う。その目標を達成することに、興味をなくしてしまうのである。別に、それやってもな、意味ないな、という気持ちになってしまうのだ。

結局今は、目標を立てず、興味を持ったらその時にとことんやってみる、ということにしている。それが、一番僕の性格を活かせる方法だと思う。

飽き性の人は、目標を立ててもその目標を追うことを飽きてしまう。だったら、飽きるままに飽きて、そしたら暇な時間ができてしまうから、興味を持つままに新しいことを始めて、飽きるまでやりつづければいい。そうすれば、いつか自分の興味が尽きないことが見つかるかもしれないし、見つからなくても、いろいろなことを経験して、それはそれで面白い人生になると思う。

だから、新年の目標は、興味を持ったことをとことんやって、飽きる、ということにする。世の中の全てに飽きる、という人はいないと思う。飽きることのスペシャリストというのもおもしろい。

だけれど、この目標も飽きるのだろうな。

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