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遠さについて


遠さについて

最も遠いところから考えることで、思考や行動の通りの良さの判断ができる。
いや、考えるというよりも立ち位置の問題だ。
何を言っているのか全くわからないかもしれない。自分でもわかっているかわからない。そして最後まで読んでもよくわからないかもしれない。

この文章は、たまに自分の意識に上がってくる「遠さ」について、マックスバリュに売っていた白ワインがなんだか思いのほか美味しくて、気持ちよく酔いつつ勢いに乗った思考のまま書いてみた文章だ。

日常生活と遠さ

僕にとって遠さとはとても重要なものだ。日々の細々としたことを心から楽しめるのは遠いところにある視点が人間のバイオリズムを肯定しているからだ。
日々の細かいことは自分の状態によって大きく左右されていて、今日は家にあるほうれん草を使いたい気持ちと豚肉を食べたい気がするという感覚によって、豚肉と玉ねぎとほうれん草の炒め物になった。ご飯はいらない。
明日は同じものは食べないと思っている。けど明日になったらまた同じものが食べたいと思うかもしれない。ほうれん草も余ってるし。

僕の日々の行動は性質やバイオリズム、ホルモンや疲れや、出会った人、目にした言葉などに左右される。僕はそのバイオリズムのようなものを肯定している。最近お酒を毎日飲んでいる自分を肯定している。そしてこれでいいのかな、と思う自分や飽きて飲まなくなる自分を肯定している。パッとみると矛盾して見えるものに対して、違和感やこじつけや飛躍もなく肯定することができる。
それは遠くにある立ち位置が通りの良さを感じているからだ。

遠さって何?

遠くの立ち位置とはなんだろう。遠くとはなんだろう。

そのまま答えるなら、時間や空間、情報空間において自分が立つことができる最も遠いところ、という答えになっていない答えが返ってくる。

時間的な遠さ

時間の遠さとは単純に言えば、1年よりも100年が遠い。100年よりも1000年、1万年、一億年、一兆年。自分が立っている場所がどのくらいの時間を含んでいるのか、過去の方も、未来の方へも。僕は感覚的には千年単位くらいだろうと思う。石は億年単位の時間を抱えている。

自分がどの時間単位で生きているのか。
もちろん人間は百年くらいが寿命で、その前後の世界は情報としてしか認識することができない。
情報は客観的な事実と言われるものでさえも、認識においては正しいと思えば正しいし、正しくないと思えば正しくない、とても曖昧なものだ。
毎日配信されるニュースについてみんなそれぞれ好き放題言っている。切り取られ方によって簡単に操作される。
だから意味がないということは全くなくて、だからこそ面白い。それぞれの人が見たり経験したあらゆる物事が情報に連続性を与えていく。私という存在によってリミックスされて意味付けされていく。
時間の話に戻る。文字が残っている範囲ではイマジネーションやリミックスの範囲はある程度制限される。誰かが残した文章について、本当はこうは言っていなかったのだ、というのはただの事実誤認だ。それを言うならそれなりの客観的な証拠が必要になる。
だけど文字も残っていない過去はどうだろう。もちろん考古学という手法で、客観的に確からしい過去に手を伸ばしていく。だけどそこには膨大な解釈可能な余白がある。そして余白を埋めたくなるのが人間の想像力だ。

過去に手を伸ばせば伸ばすほど、個々人のリミックス感が高まっていく。僕は過去は何も残さなかったというよりも、残さないことに意味づけがあった、というイマジネーションを持っている。その視点から歴史を遡るとそれなりに面白い世界が描けるだろうと思っている。だけど僕は怠惰なのでそんなことは死ぬまでにやるのかわからない。イマジネーションで終わるかもしれない。
石によって拡張されると、もっと遠くまで視点が及んでくる。そういう意味では、地形や岩という存在は記憶というイマジネーションを拡張する存在だと言える。

空間的および情報的な遠さ

空間的な遠さと情報空間としての遠さはほとんどイコールだと思う。
インターネットや本、経験など色々な情報を僕たちは日々手に入れている。僕にとって情報は夢と同じような場所に格納されていて、整然としているというよりは問いなどの投げかけによってノイズ状態の情報の海からサルベージされる、見出される。
あらゆる情報はノイズの海のスープに溶けていく。だから例えば海といえば?という問いに対して、水としての海と一緒に吉本隆明氏の文章や、紅のぶたのワンシーン、アウトドア用の浄水器は海水が使えないこと、アサリの目、キーボード、富士山はなだらかに海まで傾斜しているということ、などいろんなイメージが絡まった毛糸玉のような、混沌とした状態で浮かび上がってくる。その混沌とした情報から、伝わりやすい情報に整形して答える。
つまり、直接伝わりやすい情報が入った棚を開けて答えるのではなくて、混沌とした情報を経由して答えている。僕は混沌とした情報の広がりをとても大事にしている。その広がりのことを、遠さと呼んでいると思う。

混沌とした情報は繋がることが普通は考えられないような離れた概念が連続した状態で存在したりしている。矛盾を当然のように孕んでいたり、その全体を言語で説明するには多面的で多層的で説明不可能な情報。そしてその情報をまた多層的な立ち位置で見ている自分がいる。その視点の中には人間としての自分から離れた位置にある、と感じられる視点も含まれている。

夢の中でたまに、全体を理解したような不思議な感覚を味わうことがある。その感覚すらも僕という座標から見た全体でしかないのだけれど、あらゆることを多層的に理解している自分というものが存在している感覚がある。その時の自分は、情報空間や空間の果てまで広がりを持った知覚状態にある。夢が覚めるとなんだったか蝶の鱗粉を追うような気持ちでその感覚を追っても去ってしまったものには届かない。

広さがあるということ、心地よい風を感じること

空間的、時間的な広さを持った知覚、遠さのある知覚にとって矛盾を感じない行動は、とても遠くから心地よい風が通り抜けるような心地よさがある。エネルギーを削ぐ要素がなくて、軽い力で遠くまで飛ぶことができるような感覚になる。
そして、自分が時間的にも空間的にもどこまでも広がりがあって、自分自身もその果てがよくわからない、そしてその多層性や多面性の深さがどこまであるかもわからないと思うことができる。人間という存在の広大さを再確認ことができる。
遠さという概念は、時間の経過を美しく彩る四季や月の満ち欠けのように、人生を美しいと認識するためのスイッチのようなものかもしれない。

chatGPTに要約してもらうと

chatgptにこの長い文章を一言で表してもらうと、

遠さとは、広い時間や空間、情報の視点から物事を捉え、バイオリズムやイマジネーションを通じて行動や思考に肯定的な影響を与えるものである。

chatgptの要約より

ということでした。


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