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少しずつ違う

多様性というものが尊重される時代になりました。

個人が表現し、発信することが容易になった時代、人間が持つ多様性が、表面に浮き上がってきているように感じます。

日本人は特にだと思いますが、周囲に合わせるという文化が根強いと言われます。これは、戦後日本の教育の話を根拠にされることが多いですが、それ以前から日本人は外来の技術や思想を取り入れて、日本風に少しずつアレンジして使っていくことが得意な民族であったように感じます。

軍事技術や仏教・儒教などの宗教(これらはもはや哲学・思想と読んだほうがいいかもしれない)なんかはめっちゃ取り入れてますよね。

日本人は自らオリジナルを発信するというよりも、周りから取り入れて使っていくことの方が得意な国民性だったみたいです。

これは僕が大好きなPodcast「COTEN RADIO」の中で話されていて、確かになぁって感心した話です。このPodcastオススメです。

たぶん、多様な個人を表現し、発信することが容易になった現代においても、その傾向自体は残ってるんじゃないかと思います。

とはいえ、以前よりも多様であることが強調されている今の時代、それが強調されすぎることを警戒している人たちもいます。

行き過ぎた表現や行動というのは、集団(社会)の秩序を乱してしまう。これは、基本的に群れを成して生きる我々人間とって、重大な問題になってしまいます。

多様性はどこまでが許されるのか?これはしっかりと認識しておかないといけないと考えています。

どこまで許されるのか?その結論を言えば、自分が所属する集団の大きな枠組み(※)から出ない範囲での多様性は基本的には許されると考えたほうがいいと思います。(もちろん、ルール上許されても、倫理的・道徳的に許されないこともあると思うのでcase-by-caseですが。)

※わくぐみ【枠組み】
 ①わくを組んだもの。組んだわく。
 ②その範囲内で行動したり、考えたりする、よりどころとなるもの。

三省堂国語辞典第8版

これは、当たり前の話で多くの人がこれを理解しているから、表面上はまぁまぁ平和に毎日を過ごせているんだと思います。

そもそも、多様性というのは許容する、制限するといった類のものなんでしょうか?

僕自身は多様性に関して最近よく考えることがあります。僕は医療現場で働いていて、その中では様々な多様な意見が渦巻いています。患者さんが良くなるように支援するという共通の目標がありながらも驚くほど多様です。そんな中、それを許容するのか、退けるのか、というのは結構問題になってくることかと思います。

そんな中で僕が考えることは、
「人間が多様であるということはただの事実。覆しようが無い事実。多様性をどうするかを考えるより、多様であるという圧倒的な事実を前に、それを認識しながらどのように行動するのか。これが大切。」

ということなんです。

多様であること自体が正義だ、悪だと考えるよりも、それを事実として認識した上で、様々な状況の中で何が許容できて、何が許容できないのか?これを、その都度、できれば話し合いの中で考えて、探っていくことが大切なんだと思います。

社会の中の枠組みというのは大小様々なものがあると思います、日本国という枠組みを始め、地域・会社・家族・サークルなど様々な枠組みが存在し、それらをよりどころとして行動しています。そこから外れた時には、枠組みから弾かれてしまいます。

例えば僕の状況で言えば、病院という枠組みの中で、単位を計上するということと、患者さんに良くなってもらいたいがための行動というのが、うまく噛み合わないことがあります。それらをうまい具合に整理して、バランスの取れた行動を選択するためには倫理的に許される範囲はどこなのか?という不明瞭な部分について話し合っていくことが必要だと思っています。

多様であるという事実を認識し、現状はどこまでが許容できるのか、状況に応じて柔軟に検討していくことが、多様性との上手な付き合い方だと思います。

話し合いはたぶん必須。一人では考えられないと思います。人数が増えると余計に多様になっていきますから。(考えることができたとしても、多様性の中で状況に応じた意思決定することは困難です。)

人間は一人の思考判断で生きてはいけない、群れを成して生きる動物。

それは、多様であるが故の宿命。

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