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受動性の原因

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


世界でアメリカ以外のほとんどの国々では、気候を守る活動にとって最大の障害となっているのは懐疑論者ではなく、一般大衆と政治家の無関心です。気候変動を信じていると言いますが、本当でしょうか? 私がこの文章を書いているのは私の兄の農場です。誰かがやって来てこう言ったとしましょう。「おいチャールズ、お前さんの4歳の息子が外で遊んでいる場所に、毒蛇がいるのを見たよ!」そして私の答えが、「おっしゃることは本当だと信じますよ。何か手を打った方が良いと思いますし、必ずそうします。今やっているテトリスのゲームが終わってからですけどね」というものだったとしたら、どうでしょうか? 私が警告を本当には信じていないとあなたが判断したとしても無理はありません。もしかすると、見たのはアメリカマムシではなくてミルクヘビだと私は信じたのかもしれません。もしかすると、警告してくれた人には誤報の前歴があったのかもしれません。理由が何であれ、私が本当は信じていないとあなたが断定するのは当然です。なぜなら、もし私の息子が本当に危険な所にいると信じたなら、何を置いても息子を守ろうとするだろうからです。

一般市民の大部分は気候変動が文明にとって深刻な脅威となっているという意見を持っていますが、それを本当に信じているのでしょうか? もしかすると、根っからの気候懐疑論者と大して違わないのかもしれません。懐疑論者は自らの疑念をそのまま意見として公言します。普通の人は、表向き自分は信じていると信じていますが、実際には信じていません。どうですか、あなたは本当に信じていますか? それとも、あなたには気候変動が圧倒的な真実味をもって見えた絶望の体験がある一方で、他の時には信じると公言しながら人類の未来は危機に瀕していないかのように振る舞うのでしょうか? 他の環境保護主義者はこの問題を取り上げ、たいていは人々の否認をどうすれば切り崩して本当に信じさせることができるか悩んでいることを続けます。ふつう、そのための方策は恐怖を煽り立てることでした。私が主張しているのは、否認への正面攻撃は(一般市民の心理的否認であれ、気候懐疑論者のイデオロギー的な立場であれ)不必要だし上手くいった試しがないということです。実際、見出しが大げさなほど効き目は弱くなるのです。

過去20年間で「環境」分野のあらゆるニュースの93%が気候変動に注目していました[2]。ほぼ全ての記事が「見よ、気候変動は本当に起きている!」とか「どこそこのハリケーンや火災や飢饉は、気候変動によって起きたか悪化した」というもののようです。しかし警告が高まったにもかかわらず、社会全体は今も気候変動を実際には信じていません。まったく反対に、心理学者のペール・エスペン・ストクネスによると、「長期にわたる調査の結果、富裕な民主主義国では現在よりも25年前の方が、人々の気候変動への関心が高かったことが分かります。ですから、科学が進歩するほど、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の評価が発表されるほど、証拠が蓄積されるほど、一般市民の関心は下がっていくのです。理性からすると、これは全くの謎です。」[3]

ストクネスはこの謎を著書『地球温暖化について考えようとしないときに何を考えているか』の中で説明しています。気候変動の影響は時間的にも空間的にも遠く離れているので、人々はもっと身近なことの方を優先します。多くの人々にとって、ローンの支払いや10代の子供の依存症問題に比べたら、気候変動は非常に遠く離れ理論上でしか存在しないことのように見えます。遠い未来にしか起きない問題、ニュースでしか見ることのない問題に見えます。気候変動の現実性と深刻さを理詰めで納得している人でさえ、実感としての現実は「本当には起きていない」とか「まだ大丈夫」というものです。さらに、気候問題は暗い見通ししか持てないような言葉で語られることが多く、それが人々に無力感を与えて何か対処しようとする気持ちを失わせ、同時に化石燃料経済の共犯者として何も行動しないことへの罪悪感を与えるのだと、ストクネスはいいます。これが、罪悪感を和らげるための様々な心理的否認へとつながるのです。

ストクネスが投げかけた気候変動の時間的・空間的な遠さについての論点に加えて、私はもっと狡猾な形の「隔て」があることを提起したいと思います。気候の物語が地球規模のデータとコンピューターモデルに依存していることで生まれる原因と結果の隔たりは、主流科学者の宣告を信じることによってしか埋めることができません。科学を信頼する気のある人にとってさえ、この因果関係は「伐採で森林が荒れている」とか「有毒廃棄物で川が汚れている」という場合よりは遠いものです。

バングラデシュの洪水やニジェールの干ばつが気候変動で悪化したというようなことを言うとき、人々は「科学がそう言っているから」という理由で信仰のようにして受け入れるしかありません。これと比べてほしいのは、前に示した水のパラダイムです。そこでは新たなダムによるサヘル湿地帯の破壊が目前に迫り、これが地域の(そしておそらく地球全体の)気候に破壊的な影響を与えることを議論しました。ここでの因果関係はずっと短いものです。湿地帯を干拓すると、鳥が死に、土が硬く焼け、動物が消え、干ばつが深刻化するのです。

世界中で、森林破壊、湿地帯の干拓、工業型農業、水力発電用ダム、都市化によって、土地は壊滅的な洪水、干ばつ、極端な暑さ寒さに弱くなっています。このような破壊的行為は地域レベルで解決可能なものばかりです。気候変動の物語の中で、これらは地球全体の排出量に比べて取るに足りないもののように見えがちです。注目は地域の荒廃から離れ、はるか彼方の、もしかすると仮説の上だけの影響へと向かってしまいます。

私が提案する別の考え方は、地域生態系に注目するものですが、ストクネスの否認と無気力のメカニズムを働かなくします。目に見える結果を出せる方法で、目に見える被害に対処します。人々は無色無臭のガスの大気中濃度の変化を見ることはできませんし、それが巡り巡って気候に与える影響を直接感じることもできませんが、丸裸にされた山肌や、ガリ浸食された[雨水によって掘り崩された深い溝状の]谷や、スモッグ、有毒廃棄物、汚染された水などを見たり、その影響を感じたりすることはできます。環境保護政策が実施された所では、美しい声でさえずる鳥が戻ってきたり、地下水面が上がってきたり、魚が戻ってきたり、汚染された空気や水が澄みわたってくるのを見ることができます。

しかし問題が残ります。影響が日常生活から遠く離れているのは気候変動だけではなく、生態系破壊の全体であることです。これは先進国世界で特に当てはまります。今のところ、先進国は生態系破壊が起こす被害から自国を隔離することができています。そのため、それを現実とは思えないのです。エアコンは今も動いています。自動車は今も走っています。クレジットカードは今も使えます。ゴミ収集車はゴミを持って行ってくれます。学校は8時に始まり、スーパーには食料品があって薬局には薬があります。普通の生活を特徴付ける毎日の繰り返しは、今も変わりません。破滅的災害がこのパターンを打ち壊すのを待っていては手遅れになってしまいます。

普通のパターンが続く限り、ほとんどの人々は意味のある行動を取ることを納得しないでしょう。説得は十分に深いところまで届きません。その人の身体的・感情的なレベルに影響を与えるような体験がその説得に伴っていなければ、生涯関わり続けたことを「説得されて」大きく変える人など誰もいません。

そういうわけで、標準的な気候の物語の中であれ、私が提案する地域重視の生態系荒廃の物語の中であれ、私たちは違う方法で人々の心を動かす必要があります。この地球上のあらゆる生き物への愛から人々を切り離している、知覚の構造、感情の構造、システム全体の構造に穴を開ける必要があるのです。

気候変動反対運動に関わる全ての人々に聞いてもらいたいのは、このことです。人は恐れから何かを気づかい世話するようにはなりません。10年、20年、50年後に起きることの科学的な予測では、人は何かを気づかい世話するようにはなりません。不十分です。私たちに必要なのは、スタンディング・ロック・インディアン居留地で目にしたようなエネルギーと献身です。私たちに必要なのは、ミシガン州フリントで目にした運動の広がりです。そこではヨガ教師からバイク野郎まで全ての人が鉛汚染に反対する過酷な抗議行動に参加しました。そのためには問題を個人的なものとする必要があります。そしてそのためには、何かを失った現実に直面することが必要です。何かを失った現実に直面することを、悲嘆といいます。これより他に道はありません。

ダコタ・アクセス・パイプラインを止めるスタンディング・ロックの行動は、(少なくとも白人の環境保護主義者が関わるようになるまでは)気候変動をめぐって組み立てられたものでは決してなく、水を守り先住民の聖地を完全な状態に守るためでした。全ての水、全ての聖地を守ろうというのではなく、特定の湖、特定の聖地、実在の場所を守るためでした。何千人もの人々、とくに若者たちが、厳しい条件の中で長旅を押して参加しました。このような献身こそ、聖なるものを守り、地上のあらゆる生き物を守るために、私たちが呼び起こさなければならないものです。それは美しさ、喪失、愛、悲嘆から来るのです。

私たちが大地と水への愛で満ちた場所で生まれたのなら、なおも私たちは新たな油田やガス田を掘削し、新たなパイプラインを建設し、もっと多くの採石場を切り開き、新たな炭鉱を掘ることができるでしょうか? できないでしょう。そして人為的地球温暖化は現実の問題ではなかったことでしょう。スタンディング・ロックの運動がダコタ・アクセス・パイプラインを止められなかったのは確かですが、これほど多くの人々が聖なるものを守るためこのような遠い道のりを行こうとしたことから、秘められた巨大な力が露わになりました。その力を完全に結集したなら、何ができるでしょうか?

もし私たちが地域的なもの、いま目の前にあるもの、質的なもの、生きているもの、美しいものを再評価したら、何が起きるでしょうか? 私たちは気候変動反対運動家が反対しているものの多くには相変わらず反対するでしょうが、その理由は違います。タールサンドオイルの採掘に反対するのは森林を殺して景観を台無しにするから。山頂の切り崩しに反対するのは聖なる山々を破壊するから。フラッキングに反対するのは水を辱め貶めるから。海上石油掘削に反対するのは原油流出が野生生物を毒するから。道路建設に反対するのは大地を切り刻み、路上で動物が轢き殺され、郊外化を促進して生息地を破壊し、コミュニティーの喪失を加速するからです。カナダ・アルバータ州のタールサンド採掘場の写真を見てください。温室効果について何も知らなくても、かつて手付かずの森林のあった場所が汚染水の溜まった穴や池になっているのを見れば、あなたの心は涙を流します。あるいは連続ドキュメンタリー『ガスランド』を見てください。ニジェール・デルタを破壊した原油流出について読んでください。地球温暖化についてどういう意見を持っているかに関係なく、目の前にあるこのような悲劇は心にぐさりと突き刺さります。

この観点から、私たちは二酸化炭素の物語が危険とするものをほぼ全て変えていこうとするのは同じですが、違う理由から、違う目をもって変えていきます。環境保護主義を巨大科学と組織的権威への信頼に結び付ける必要はもうありません。そうしてしまうと、人々が権威(この場合は科学的権威ですが、科学という制度を支え正当化するあらゆるシステムに及びます)をもっと信頼しさえすれば問題は解決するという意味を暗に含むことになってしまいます。お分かりですね? もし私が気候懐疑論者の立場を受け入れるとしても、環境への私の熱意が一分たりとも減ることはありません。環境意識に目覚めるためには、懐疑論者に知的論争で打ち勝つことなど必要ありません。それで人々に気づかいと世話の気持ちを起こすことはできないのです。

環境問題を二酸化炭素という言葉でとらえると、悲嘆と恐れから人々を遠ざけることになります。ブルドーザーから目を背けて二酸化炭素濃度と地球平均気温のグラフを見ると、「そのガス田開発で失われる森は植林して埋め合わせよう。それに、これは十分な数の風力発電所が稼働するまでの一時的なものだから」という発言が極めてもっともなものに見えます。

逆説的ですが、二酸化炭素で物事をとらえると二酸化炭素を発生する活動を続けることが可能になります。全地球的な規模で見れば、ある地域の発電所や都市が温室効果ガスに与える影響は取るに足りないものです。「世界中の他の地域で削減が進むなら、当市が排出量を減らす必要はない」、「我が国は経済的コストを負担できない。他の各国に削減してもらえば良い」という言い分も出てくるでしょう。問題と解決を全地球的で量的な観点から組み立てるなら、気候交渉を苦しめるこのような不和を避けることはできません。

私たちの目に見える局地的な被害へと関心を移すと、このように遠く離れた他者へと責任転嫁することはもうできません。「誰か他の人に私たちの愛する山の頂を守ってもらおう。誰か他の人に私たちの愛する川を守ってもらおう。誰か他の人に私たちの愛する森を守ってもらおう」などとは誰も言えません。私たちの大好きな鮭の上る川が破壊された悲しみは、ネパールでの森林再生計画で「埋め合わせ」て慰められるようなものではありません。ニンビー[「私の家の裏庭には駄目だ」と言う意味の地域エゴ]思考は、力を持った市民で共有されると、「だれの家の裏庭にも駄目だ」に変わります。

私が家族ぐるみの友人だった故ロイ・ブルーベイカーは、ペンシルベニア州中部に住むキリスト教メノナイト派の牧師でした。彼は政治的に極めて保守的な地域で「釣り銃猟クラブ」を動員した流域保護運動を組織し大成功を収めました。この郡のどこでも民主党のヒラリー・クリントンに投票する人を見つけるのは難しく、流域保護の問題を気候変動の観点で組み立てたなら何かしようという人は誰もいなかったはずです。しかし、この地域の川が良くなって下流のチェサピーク湾まで恩恵を受けただけでなく、私がここで進めてきた「生きている地球」の観点が正しければ、地球全体も恩恵を受けたのです。

炭素の物語を重視するのをやめると、従来どおりの活動を好き放題に続けて良いということになるのでしょうか? いいえ、その反対です。ウォルフガング・サックスはこう予見していました。「じっさい、それまで何十年も続いた『無知』と『貧困』に代わって、『地球の生存』が1990年代の広く知られた緊急事態になりそうだが、それを口実に新たな開発ブームが解き放たれるだろう。」[4]

世界中で地域生態系を守り癒すことは、化石燃料の使用を止めるよりもはるかに私たちの知る文明を混乱させるものです。主流の気候政策は、産業社会を動かし世界全体の経済成長を続けるためには単に再生可能燃料に切り替えればよいと想定していて、「グリーン成長」や「持続可能な開発」という言葉が使われます。時の権力者にとって気候変動は、自分自身により大きな権力を与えるように構想されているなら全く恐れるものではありません。サックスが書いているように、権力者は「地球全体を覆う産業マシーンをどんどん加速させながら動かし続け、同時に地球の生物圏を守るというプロメテウスのような仕事」を任されているのです。サックスはこう続けます。

(このためには)…監視と規制の飛躍的な進歩が必要となるだろう。そうでなければ、個人から国、そして地球レベルまで多岐にわたる決定を、いったいどうやって整合させればいいのだろう? 市場刺激策、厳しい規制、補償措置、高度なスパイ行為、徹底した禁止によって、仮に産業の合理化を達成できるかもしれないとしても、それは二の次だ。重要なのは、これら全ての戦略がより強力な中央集権主義、特に強力な国家を求めていることだ。環境官僚は自然への負荷を減らすために産業的な生活モデルを問題にすることなどめったにないので、進歩を続ける技術から手に入る全ての能力、展望、手段をかき集め、無数の社会活動の歩調を合わせる必要に迫られる。[5]

気候変動は自然と文明の関係に革命が起きる前兆ですが、これは際限なく続く成長の中で地球上の資源をより効率的に配分するための革命ではありません。それは愛の革命です。森林が、マングローブが、川が、山が、サンゴ礁が、そのひとつひとつが神聖なものであることを知り直すことです。気候の役に立つから守るのではなく、その存在自体を愛することです。

地球を深く積極的に気づかい世話することは美と悲嘆の体験を通して現れるのであって、廃墟となった未来への恐れからではないという考えは、直感に反するように見えるかもしれません。多くの人々が私に話してくれるのは、環境保護主義者になったきっかけは差し迫る気候変動の破滅的な結果を知ったからだということです。その結果、私たちはコストと結果という言葉を受け入れ、それを使って他の人々が環境を気づかうようになるのを期待します。

でもそれは本当にあなたが環境保護主義者になった理由ですか? 他の自然保護問題を進めるために気候の議論を使うことには、手堅い現実主義というイメージと自己像を作る心理的な副産物があって、そこでは自然を愛する感傷的な理由は合理的で功利主義的な理由に道をゆずります。海水面や経済損失や穀物の不作リスクのデータをこね回して真実を隠すこともできます。でも基本的には、あなたは木々を抱きしめる自然愛護論者なのです。あなたはクジラを愛し、蝶を見つめ、ウミガメを優しく撫でる人なのです。ドルイド教の儀式を行ったり、ビジョンクエスト[ネイティブアメリカンの儀式]でガイアの魂と繋がったりする人かもしれません。1.5℃とか2℃とか、海面上昇が何メートルとか、何ヘクタールの森林とか、太陽電池のエネルギー収支比とか、メタンハイドレートの放出速度などなど、将来の影響についてあなたが持ち出す議論は、どれも木々を抱きしめるあなたの感傷的な愛情を正当化してくれます。しかしこれも悪魔との取引かもしれず、環境保護主義は魂と引き換えに言語の力を得るのです。

この取引は、望む結果が実際に得られるのなら価値があるかもしれませんが、これまでそうなった試しはありません。データを基にしたモデルや、そこから導かれるコスト効果の議論を取り入れたにもかかわらず、地球生態系の状況は絶え間なく悪化してきました。私たちは常に理性的であろうとしてきました。もしかすると理性を捨てるときが来たのかもしれません。恋に落ちた人が愛する人を大切にするために、自己本位の理性は必要ありません。私たちの内なる自然愛に敬意を払い、そこから言葉を発するなら、他の人々は耳を傾けるでしょう。もしかすると私たちは人々の考え(マインド)を変えようとして間違った言葉を話していたのかもしれません。本当に変える必要があるのは、心(ハート)です。


注:
[2] この統計は完全に私の作り話です。数字が付いていた方が、私が言いたいことに説得力が出ると思いませんか? 適切なデータ源と統計手法を使えば、こういう数字を作り出せる自信がありますし、その気になればどんな数字だって作り出せます。これが示しているのは、ものごとを不明瞭にするという数字の持つ力です。私たちはいつも数字の後ろに何が隠れているかを問わなければなりません。

[3] シフマン(2015)。

[4] サックス(2010)p. 24。(著作集に収められたこの小論は1990年代以前に書かれたものです。)

[5] 同上 p. 35。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-causes-of-passivity/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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