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香味が味覚を台無しに (トランスヒューマニズムとメタバース その2)

訳者より:映画『マトリックス』で裏切り者のサイファーが言います。「このステーキは存在しないことを知っている。ステーキを口に運ぶと、マトリックスが脳に信号を送ってくる。このステーキはジューシーでおいしいと。」白状しますが、私はカップラーメンを美味しいと感じます。これに慣れてしまうと天然素材の料理が物足りなくなるのだと頭で分かっていながら、時々食べます。プラスチックフィルムを剥がし、接着された蓋を開き、シワシワに乾燥された野菜の小袋を破り、粉末や油の小袋を破り、お湯を掛けて待つ間、この食い物はシミュレートされた仮想現実に違いないと、いつも思うのです。チャールズ・アイゼンスタインの長編エッセイ『トランスヒューマニズムとメタバース』の翻訳、今回はその第2回です。(第1回はこちら


2. 香味が味覚を台無しに

色が目を見えなくし、音が耳を聞こえなくし、香味が味覚を台無しにする。

『老子道徳経』

何年か前に、私は息子のフィリップと友だちを連れて映画を見に行きました。私たちは3D メガネをかけ、ありとあらゆる物がスクリーンから飛び出してくるように見えました。「ほんとうの世界が映画みたいに3Dだったらスゴイと思わない?」と私は冗談めかして聞きました。

少年たちは私が真面目に聞いたと思い、「そうだよね!」と言いました。私はこの皮肉をうまく言い表せませんでした。スクリーン上の現実があまりに鮮明で刺激に満ち強烈だったので、それに比べたら本当の世界が退屈に見えるほどでした。(事の顛末はここに。)

いやはや、私の11歳の息子は良い仲間を持ったようです。レゴ社の製品マーケティング最高責任者、ジュリア・ゴールディンが語ったこの言葉を考えてみてください。

私たちにとって優先すべきは、子供たちにメタバースのメリットを全て与えられるような世界を作り出す手助けをすることです。没入型体験や、創造性と自己表現を核に、安全な方法で、子供たちの権利を保護し福祉を増進するのです。

うおーっ、「没入型体験」。素晴らしいじゃないですか? でもちょっと待ってください、とっくの昔から私たちは三次元の現実という没入型体験の中にいるのではないですか? なぜ既にあるものを再創造しようとするのでしょう?

もちろんその意図は、私たちが作り出す人工現実は本物より良いものになるということです。より面白く、制約が少なく、しかも安全。でも現実のシミュレーションが本物に匹敵することなど有り得るのでしょうか? その野心の基になっているのは、あらゆる体験をデータに変換できるという、もう一つの前提です。そこでは脳の計算モデルを利用します。あらゆるものは数量化できると仮定します。質などは幻想で、実在するものは全て測定できるのです。最近ちまたで騒ぎになったのが、グーグルの研究者ブレイク・ルモワンが漏らした対話特化型AI(人工知能)とのインタビュー記録で、そのAIは自分の知覚が脳と意識の計算理論を利用したものだと認めます。意識さえも0と1の並びから生まれるのだとしたら、何かが実在しているとはどういうことなのでしょう?

神経回路網ニューラルネットAIは脳を模倣して作られたように見えますが、むしろ逆かもしれません。私たちは脳を無理やり神経回路網モデルに当てはめて理解しているのです(1)。確かに脳と人工的な神経回路網の間には表面的な類似性がありますが、そこにはまた大きな違いがあって、私たちの計算主義という偏見がそれを無視します。ニューラルネットが模擬する「状態」は脳の完全な状態とは比較にならないほど小規模なもので、脳には神経だけでなくホルモンやペプチドなどあらゆる化学物質も含まれていて、その全てがからだ全体と臓器すべての状態に関係しています。認知と意識は脳だけで起きるものではありません。私たちは肉体的存在なのです。

計算主義の詳しい批評はここでの目的ではありません。私が言いたいのは、それを私たちが喜んで受け入れ、適切なニューロンを操作することであらゆる主観的な体験を作り出せると信じてしまうことです。

現実そのものと同じではないとしても、シミュレートされた現実は普通ずっと派手で、明るくて、高速です。仮想現実(VR)、拡張現実(AR)、エクステンデッド・リアリティ(XR)の強烈な「没入型体験」に足を踏み入れると、私たちにはその強烈さが習慣になり、(ふつうは)スローで先の読める物質世界に引き戻されると禁断症状に見舞われます。反対に、安全でエアコンが効き外から隔絶された、そもそもAR・VR・XRを魅力的にしているカプセルの中で得られるのは、現実世界の体験のもつ強烈さを剥ぎ取ったものに過ぎません。強烈な刺激への習慣化で起きるのはこれだけではなく、私たちは他の感覚や他の感じ方を働かせる能力を失います。声の大きい方へどんどん向かっていくと、私たちはもう小さな声に耳を澄ますことはありません。派手な色を見慣れてしまうと、私たちはもう微妙な色合いを感じることはありません。

幸いにも、失われたものは全て取り戻すことができます。森の中に30分ほど静かに立っているだけで、ゆったりと静かなものが私の現実に戻ってきます。隠れていたものが姿を現します。かすかな思いと秘めた感覚が浮き上がってきます。見えないものが見えてきます。いま至る所にあるエンジンのゴロゴロ、ブオーッという音の下に何が隠れているでしょう? 近代科学の数値と名前の間に隠れている、測れないもの、名前の付けられないものは何でしょう? 雪を白、カラスを黒と言うとき、私たちが見落としているのはどんな色でしょう? データの間、データの外には何が隠れているでしょう? 現実をシミュレートする企ては、いま私たちに見えていないものを取りこぼし、したがって現在の不備や先入観を拡大するのでしょうか? 私には危険が見えます。トランスヒューマニズム的なメタバースを作ると、できるのは天国ではなく地獄です。管理され囲い込まれた有限性という牢獄に自分自身を閉じ込め、コンピューターのビットやバイトや0や1を、もし私たちが十分に積み重ねたら、いつの日か無限に手が届くはずだと、自分自身を欺くことになるのです。


注1:ニューラルネット・モデルという言葉で私が意味するのは、ノード(節)とグラフ(結線図)、重み付けされた接続、活性化関数群、入出力の層、接続の重み付けを修正するフィードバック過程からなる、基本的な構造のことです。

第3回につづく

原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/transhumanism-and-the-metaverse

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