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選択の前提

(お読み下さい:訳者からのお知らせ)


人間の創意工夫には限界がないので気候変動は問題ではないと主張する技術楽観論の前提を、少しの間見ていきましょう。もしそれが正しければ、もし私たちが思うものを全て形にできるなら、なぜ年々ますます醜くなり劣化していく世界に我慢するのでしょう? またそれに伴う内的な荒廃になぜ我慢しているのでしょう? たしかに、技術を使えば、私たちは失われた生態系サービスを埋め合わせることが可能なのかもしれません。そしてまた、私たちはそれに伴う内的な喪失も技術で、精神治療薬で、「コンテンツをリッチにした」バーチャルリアリティーで外の窮乏化した現実を埋め合わせ、娯楽や刺激をたっぷりと注ぎ込んで、自然界の枯渇が引き起こした美的、官能的、精神的な飢えを満たすことが確かに可能なのかもしれません。できる可能性はあります。

でももし可能だとしても、する必要はありません。そうではなく、私たちはこの「人類の無限の創意工夫」を全世界のホールネス(全体性)と美しさに捧げ、「再合一の技術」とでも呼べるものを使って内的・外的な風景を修復することもできます。人間の意思の驚くべき力を考えれば、いま発した「なぜ年々ますます醜くなり劣化していく世界に我慢するのか?」という問いを私たちはこう書き替えてもいいのかもしれません。「なぜ年々ますます醜くなり劣化していく世界にこれまで我慢《してきた》のか?」

もし私たちがその問いに答えられないなら、またもし私たちがその選択の前提条件を変えられないなら、私たちが針路を反転する望みはありません。全く望み無しです。私たちはこれまでずっと我慢し続けてきたものに我慢を続けるでしょう。

劣化した世界で我慢するという私たちの選択の前提条件は至る所に絶えず存在しているので、私たちはそれが現実そのものだと思っています。そのような諸々の条件が束になって、私たちが生きている「分断」の神話と体験を織りなしています。

「分断の物語」の基本的な哲学については既に説明しました。人格のない力と、無個性な物質の断片、競合する他の自己たちからできた、「他者」である客体的な宇宙の中の、個別ばらばらの自己です。これが生態系破壊を引き起こす手段としているものをいくつか挙げてみます。

現在のお金と財産の制度。これは、私が『聖なる経済学』に書いたように、競合する個別ばらばらの自己というイデオロギーを具体化し正当化します。お金が環境に及ぼす影響の議論は、企業の強欲や、政府の腐敗、無責任な買い物の習慣を非難するところまでに留まるのが普通です。私たちの知る資本主義の構造が終わりのない生態系破壊を避けられないものにしている原因がどれほど深いかについて、左翼知識人以外から鋭い説明を聞くことはめったにありません(左翼知識人でさえ極めて希ですが)。これは私が一つの章を丸ごと充てるほど重要な問題なのですが、その理解がなければ私たちは持続可能な開発という戦略を内在する矛盾に気付かないまま無益に追求することになるからです。

還元主義と直線的関係のイデオロギー。このせいで私たちは自分の行為の影響をいつも過小評価することになります。自然を途方もなく込み入った機械だとして理解すると、そのホールネス(全体性)と各部分の相互関係性が見えなくなります。人体では一つの臓器や組織が傷害を受ければ全身にその影響が及ぶことは誰でも分かりますが、生態系の身体でも同じだということが主流の文明で受け入れられ始めたのは最近になってからです。一つの場所の損壊、一つの生物種の絶滅、一つのマングローブ沼沢の干拓は、影響をその場だけに留めることは不可能で、遠く離れたところにも影響を及ぼすので、さらに手を加える必要が出てきます。たとえば、機械論的な物の見方では、作物に対する昆虫の食害が問題なら殺虫剤が解決策です。もしその殺虫剤が標的以外の昆虫を殺し、その昆虫によって抑えられていた菌類が蔓延したら、解決策は殺菌剤です。もしその殺菌剤が土壌の健全性と保水力を維持している菌糸の網の目を壊してしまったら、解決策は灌漑です。そして灌漑と化学薬品によって地下水が枯渇するか汚染された場合、解決策はどこか他の場所からパイプで水を引いて来ることです。この延々と続く技術的対策が、加えた危害の影響をいつまでも未来へ先送りし、結果と原因を引き離してしまいます。

別の言葉で言えば、私たちが生物圏を絶えず傷つけることを選んできたのは、何を選ぼうとしているのかを知らないからです。地球が互いに結びついた一個の生体であるということを知らないので、私たちは損害を切り離してその場だけに留められると考えます。それがどこか別の場所に別の形で噴出し、その原因が判然としないとき、私たちは首をかしげます。直線的思考に囚われて、私たちはまた最も近い直接の原因を探します。蜂群崩壊症候群でミツバチが死んでいきます。なぜでしょう? 私たちは原因を、病原体を、敵を、つまり戦う相手となる何かを探そうとします。直線的な思考は戦争思考です。有用で適切なときもありますが、非直線的なフィードバックに気付かないまま使えば、それまでの戦争が作りだした敵に対する果てしない戦争となります。(私たちと自然界の関係と同じように、このパターンが政治にも当てはまることは明らかです。)

現在、私たちは直線的な制御を重視する思考から非直線的なシステム論的思考に至るイデオロギーの移行期にいます。たとえば遺伝学では、孤立して働く遺伝子は存在しないことが明らかになり、「一つの遺伝子に一つの形質」という古い定説は完全に崩壊しました。遺伝子工学で生物を正確に操作して、予期せぬ悪影響を起こすこともなく望みどおりの形質を持たせることができると期待されましたが、たった一つの遺伝子を編集しただけで生物は自分自身を全面的に再構成することがあるという発見により、遺伝子工学という夢は空想であることが明らかになりました。部分は全体から切り離せない関係にあるのです。

このパラダイム・シフトにとって生態学とガイア理論ほど重要な分野はないでしょう。生態系は非直線性であふれています。共生関係、正と負のフィードバック、自己触媒的循環、栄養カスケードなど。そして恒常性のフィードバック機構によって地球は生命にとって快適な環境を維持しています[7]。気候科学はこの非直線性を認識してはいますが、その知見を政治の言葉に置き換えることが必要な場合は特に、非直線性の全ての影響を捉えきれていません。その結果、私たちがトップダウンの戦略で原理的には制御できる地球全体の変数(その筆頭として温室効果ガス)に力点を置く一方で、局地的な生態系破壊の寄与をないがしろにすることになります。

私たちの共感の鈍化と感覚の麻痺。第一に、他の生き物たちは人間以下の意識しか持たないとする世界観によって、私たちはそれらをただの獣、ただの植物、ただの土と考え、共感に値しないと考えるようになります。それは、私たちが生まれ持った感じる心(ハート)に宿る知性と、私たちのいる世界は生きていて意識を持っていると理解する汎神論的な直感とに矛盾します。したがって、その共感から意識的な行動に移すために、感じる心(ハート)は考える心(マインド)を乗り越えなければなりません。さらに、私たちが感じるこの世界との絆が繰り返し否定されることは、ある種のトラウマとなって共感を抑え込みます。環境を守る動機として功利主義ではなく共感を取ることに対して、他の人や自分自身を気が変だとか、不合理、感傷的だと非難するたびに、私たちはそのトラウマを繰り返します。

第二に、共感性と感受能力はトラウマによって鈍くなります。極端な場合、子供時代の重大なトラウマによって解離が起きます。感じることによる痛みが大きすぎるので、無意識の心が知恵を働かせて無感覚を起こし、子どもが成長して対処できるように強くなるまで痛みを殻に閉じ込めておきます。その癒しが起きるまで、その人の感受能力は低下しています。その人は見た目には普通かもしれませんが、それは現代社会では感覚からの離脱が当たり前になっているからに過ぎません。一つには現代の文化で私情を挟まない客観性と理性が重要視されていること、また一つにはトラウマ自体が当たり前になっていることがその理由です。子どもへの身体的、性的、感情的な極度の虐待、戦争と政治弾圧、家庭内暴力と経済的貧困が恐ろしいほど広がっていることで覆い隠されている、よく見えない形のトラウマがあることにも触れておきます。気付くことがほとんど無いほどに、それは普通になっていて、その結果起きる感受能力の減退も当たり前になっています。

人生で一定量のトラウマは避けられず、じつは成長のために必要なものでもあります。多くの伝統的文化ではこのことを知っていて、トラウマをもたらす体験を通過儀礼の過程の一部として取り入れ、儀式の枠の中の体験がその後の人生の一部となりました。私たちの社会では、その逆であることがほとんどです。トラウマは恥ずべき秘密とされたり、階級、人種、性別の固定観念の中に隠されたり、当たり前とすることで完全に見えなくされてきました。

社会が普通と見なしていることが、じつはトラウマとなります。親に怒鳴られる、性的なことで恥をかかされる、学校に入った最初の日で見知らぬ人の中に放り込まれる、映画で強烈な暴力の描写にさらされる、頻繁な触れあいを奪われる、屋内や遊び場に閉じ込められる、度重なる引っ越しで友だちの絆を引き裂かれる、親の離婚で現実の崩壊を経験する。この全てが完全な身体的虐待と同じ意味での「トラウマ」には当たらないとしても、感受能力の麻痺に寄与することは確かです。

先日私は飛行機で家庭向けに編集された数分間のアクション映画を見ました。「くそったれ」や「ファック」のような言葉は婉曲表現で言い換えられていました。裸の女性の胸もカットされていました。それでも完全に残されていた身の毛もよだつシーンは、男が巨大な挽肉製造機に頭から突っ込まれるというものでした。このようなイメージはトラウマ正常化の症状であり手段でもあります。それが女性の胸ほど心を乱すものではないと社会が合意しているうちは、私たちが生態系破壊の行方を逆転させる望みなどあるでしょうか?

そして最後に、経済的、社会的、政治的抑圧に伴うトラウマがあります。非人道的な扱いを受けたり貧窮した人々の関心は自分の生存に向かいます。抑圧された人々は「共感という贅沢」を持たないということではありません。私は貧しい人々が特権階級の人々に比べて共感的ではないと感じたことなど一度もありません。それどころか現実は逆です。しかし、毎日を生きていくことが緊急の課題になっていると、その共感の現れは狭い範囲に限られてくるかもしれません。ブラジルで土地を追われて切羽詰まった農民のことを考えて下さい。アマゾンの道路工事、鉱山、大牧場で働いている彼らが、もし森の苦しみに対する感覚を失っているとしたら、それは彼らが生き残るためにそうならざるを得ないからです。

概して、生存の不安は共感とは逆のものですが、それは抑圧される人々だけを苦しめるものではありません。抑圧する側をも苦しめます。それは、人工的に作り出された欠乏が一人一人にしつこく付きまとい、他の人より一歩先へ行こうとせき立てられる社会の中に、私たちはみんな生きているからです。私たちの経済システムには競争が作り込まれています。最も合理的な経済判断を下すため、しばしば私たちは心を鬼にしなければなりません。やがてその心の鬼は習慣となり、無意識の反射となり、生き方そのものとなります。

この数ページの議論をまとめ直してしてみましょう。生態系破壊の行方を反転させるため、私たちは癒しの道を意識的に選び取る必要があるかも知れません。文明崩壊によって強制的にそうなるのを私たちは当てにするわけにはいきません。選び取るためには、私たちは選択をするための元となっている前提条件を変える必要があります。そのような前提を変えるには、私たちは違う種類の経済システムと違う種類の自然の理解を実現し、さらに重要なのは、私たちの共感的な感受能力を回復することが必要です。したがって、環境悪化と気候変動の問題は社会的、経済的、人間的な癒しの必要から切り離すことができません。

感受能力の回復には痛みが伴うでしょう。なぜなら感じるべき痛みはそこら中にあふれているからです。痛みは世界中で隔離され、私たち自身の中に抑圧され、視界から隠されています。私たちの外側では、コンクリートと鉄条網の壁が、偽情報の壁が、牢獄の壁が、ゲーテッドコミュニティー[塀と門で囲まれた高級住宅街]の壁が、歴史に対する無知の壁が、無言の加担という壁があるので、大きな勢力を持った文化が(人間でも人間以外でも)傷つけられた者たちの苦しみを意識しないままに保たれているのです。私たちの内側では、偽りの希望、妄想、依存症、洗脳薬物が、その役目を担っています。

結局のところ、私たちが引き起こした危害を技術で永遠に解決し続けられるという可能性があるとしても、アルコール依存症の人がもう一杯の酒を飲むことで痛みを永遠に先延ばしにできるという以上に見込みがあるとは、私には信じられません。生命にとってますます住み難くなる環境条件への技術的対応の一つ一つが、ますます大きな影響をもたらします。もっと込み入った社会システム、もっと込み入った技術。 やがて、複雑化への投資が損益分岐点を迎えます。 医学、教育、政府、軍隊は、みな膨張した運営機構の重荷にあえぎ、それが本来作られた基本的な役割を果たすことさえ難しくなっています。やがて、そのようなシステムは自分自身の重みで崩壊します。

しかし繰り返しますが、私たちが美しく癒された地球で生きることができるなら、破壊された地球で生存できるという理論的可能性は無意味な問いです。さらに進めると、気候変動についての論争のほとんどは、環境破壊が他の生き物に引き起こす痛みを進んで感じられる人にとっては無用なものでもあります。私たちの生存や私たちの孫の生存が脅かされるかどうかにかかわらず、現在の形の産業文明が活動するところには至る所で痛ましい破壊の跡が刻まれていきます。もしもこれが唯一可能な文明のあり方であるなら、それは甘んじて受け入れる犠牲なのかもしれません。

私は違う種類の文明が可能だと思います。その輪郭を描き出すのは、オルタナティブ(代替的)でホリスティック(全体論的)なもの、土着的で伝統的なもの、革新的で創造的なもの、再生し修復するものです。先見の明を持つ人だけがこれを見ているのではありません。読者の皆さん自身も、習慣と疑念の荒海で溺れそうになっているとき、波間に見え隠れしているのを確かに見たはずなのです。選ぶべきものがそこにあることを、今ここで私たちは互いに思い起こさせようとしているのです。


注:
[7] ここで、生物圏が恒常性を維持しているという概念を撤回するよう私に促す人がいるでしょう。生物圏は絶えず変化していて、「ホメオダイナミック(動的恒常性)」といった最近流行の用語も登場しています。そう、身体は完全に一定しているとも限りませんが、身体と地球はどちらもいくつかの主要な指標で長い時間にわたって驚くほどの一定性を示します。たとえば、海の塩分濃度は流入を続ける塩分にも関わらず何億年にもわたってほとんど同じに保たれてきました。地球の気温は太陽放射が大幅に増したにも関わらず数%の範囲内で一定に保たれてきました。大気の酸素濃度は同じように動物の生存が可能な範囲内で一定に保たれました。他にもあります。


(原文リンク)https://charleseisenstein.org/books/climate-a-new-story/eng/the-conditions-of-our-choice/

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示4.0国際 (CC BY 4.0)」 
著者:チャールズ・アイゼンスタイン
翻訳:酒井泰幸


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