変わらないもの、変わってきたもの
人の歴史の中で驚くほど変わらないことは案外多い。
例えば傘。
浮世絵などに描かれた傘と現代の傘は素材こそ変わったものの、傘自体の構造はまったく変わっていない。
あるいは源氏物語などに描かれた好いた惚れたや嫉妬などの気持ち、それにまつわるざわざわ感も、変わっていないものの一つだ。
そしてもっと変わらないものは身体的、生理的な反応。
排泄や睡眠、空腹感なども変わりようがない。
それをせずに生きることはむずかしく、またそこに付随する満たした時の快の感覚も抗いがたいものがあり、今も昔も驚くほど変わっていない。
だがしかしこの中でも抗えないなりに変わったものがあり、それは食事ではないかと思う。
本来食事とはグロテスクな行為である。
他の存在を分解して、自身に取り込む行為。
そしてその欲求の根本は自身の空腹感を満たすためという非常に利己的な理由からきている。
じぶんのためなら他の存在はなくなってもよくて、またありつづるのはじぶんだという血生臭さ。
しかしこれらのあらゆるものをボクらは現在感じていない。
食事は楽しく、美味しく、幸せな時間。
そしてそれらを巡り、血眼になる必要もない。
そう考えると食事の風景と捉え方は大きく変わっている。
実はこれまでの人類が羨むような食事が取れているのが、今の時代だという気がしている。
そんなことを噛み締めながら、今日も他の命を取り込みつつ、生きながらえていこうと思う。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
でも失ってしまったものもあって、多分もっとみんなで食事を食べていたんじゃないかなと思います。わいわいがやがや。
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