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悪を考えなおす

昨日映画『JOKER』を観た。



実は3回目になるが、やはり息を呑む作品だった。



作品は1981年、ゴッサムシティという架空の街が舞台で(ニューヨークやシカゴがモデルなのではという雰囲気)格差が拡大し、労働者と資本家の対立が激化し、怒りや諦め、不満が社会に漂っている荒廃的な、無秩序なところから物語は始まる。



この作品はバッドマンシリーズの前日譚の形式を取っており、シリーズ屈指の悪役JOKER誕生までを描いている。



主人公アーサーは立場の弱い側におり、映画を通じて拠り所にしていたものが一つ一つ消えていく様と、その中での絶望感が深まっていく様がチェロの音色と共に表現されて描かれる。



心の薬を7種類服用し、福祉としてカウンセリングサービスを受けるアーサーはその場で「狂ってるのは、僕か?世間か?」と問い、また物語の終盤、大衆の前では「僕が歩道で死んでも踏みつけるだろ」と話し、「誰も僕に気付かない」と話す。



薬もカウンセリングサービスも福祉の縮小で打ち切られ、職場、仕事を失い、笑い者にされ、親からも背かれ、全ての期待が裏切られた先に、すべての依存先が自分を受け入れてくれなかった時、彼は満面の笑みで笑うピエロのメイクをして、JOKERになっていく。



この映画が秀逸なのは、主人公アーサーに笑ってしまう病いがあると設定しているところ。


おそらく悪が高笑いするのを、多くの人は見たり、聞いたりしたことがあると思うが、あれはおかしいから、楽しいから笑っているのではなく、そういう症状だと説明された途端、悪役の不可思議な行動は病いなのでは?という考えが浮かび、悪を悪と見れなくなるところにある。



もっと言えば自分の目から見える景色で悪と決めつけ、成敗しにくるヒーローこそが、むしろ暴力的で危険な存在にすら見えてくる。



そういうパラダイムと、もしかしたら事情があるのでは?という想像力を働かせることを教えてくれたこの作品は、悪を問いなおすきっかけになると、改めて思えた。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
居ないことにされることが、生きる人間にとって最大の苦痛なのだろう。

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