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ゆっくりやるという美意識

アメリカのゴールドラッシュ時にほんとうに大儲けしたのは、金を掘りに行った大勢の者ではなく、その掘りに来た人に道具を売った少数の者であった。


第二次世界大戦中、ナチスの脅威の中、多くの者がユダヤ人の運命に目を背けていたときに、オスカーシンドラーや杉原千畝は、志と良心にしたがって、ユダヤ人の命を救う行動を起こした。


どちらの話しも、常に世界は少数派の者が変えてきた。
そしてその少数派の者たちは、少数派になってしまう恐れ以上に、じぶんの違和感に正直に向き合った。


と書くと何やら大きなことだし、大袈裟に感じるのだけど、僕たちの日常にもそういう小さな、些細な違和感とか、なんとなく流されていることっておそらくたくさんあるように思う。


僕が一番違和感を感じるのは、あらゆる動作が必要以上に早くなっていること。
時間の価値が上がったからだと思うのだけど、早くやればいいというのは全ての動作ではないと思う。


何かを飲んだり、食べたり、はたまた歩いたり、目と目を合わせて挨拶したり、戸やものを押したり引いたりするときだって、もう少しだけゆっくりやった方が、触れるもの、関わるものに敬意を持った方が、その所作は美しいのになぁと感じる。

実際に手を動かすこと、行動することは今も少数派で尊いのだけど、それが仮にある日多数派になったときに何で差が、個性が出るかと言えば、何をして何をしないかの、それは美しいかどうかの美意識で、そのじぶんの美意識に気付く方法は、心の感動やモヤモヤや違和感を見逃さないことなのだと思う。

見逃さないでいるためには、人と比べないこと、周囲の顔色を伺い過ぎないこと、少数派であること、人と違うことを恐れないことではないだろうか。
かつての先人たちのように。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
早くやる、とか時短にはキリがないんですよね。
キリをつける尺度が僕は個々人の美意識だと思います。








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