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いつの間にかなくなる

今日のトップ画は、近所の会社の敷地内に毎日いた猫の写真で、その会社の人いわく、その会社の猫ではなく、野良猫だそうな。


今思い出してみると人が通ってもまったく動じなかったのは人間になれているというよりは、もしかしたら齢を重ねていて、まぁいっかと言ったような心持ちだったのかもしれない。


野良猫なのに毎日この会社の木の上で気持ちよさそうに眠る猫を見て、飼われているわけではないけど、みんなから気にされながら、でもべたべたし過ぎないといった距離感を保っている、どこか飄々とした佇まいの猫が、どこか僕も気になっていた。


しかしここ半年くらいそれまで毎日いたこの猫を見かけなくなった。
そういうことだろうとあるとき思って以来、猫のことは忘れていたが、今日同じ場所に違う猫がいたことで、かつていた猫を急に思い出した。


実は毎日変わっていないとされる街の風景や行き交う人々も刻々と失われたり足されたりして移り変わっている。

でも僕らがそれに気付くのは、それに気付けるのは、それがあると気付いているからで、かつあるだけではなく、それがいつの間にか失われる可能性が見えたり、ある日突然ほんとうになくなってしまうからだ。

それに気付けることはうれしい反面、失われる悲しみもセットになっている。
だから悲しみたくない、こんなに悲しいなら気づきたくないという人がいることも理解できる。


だが僕は、何もない、何にも気づけないということが、ほんとうは悲しいことのように感じている。

だから日々のほどほどの喜びや悲しみや寂しさや怒りなんかも含めて感じられているのは、とても幸せなことなのだと思う。


猫に会えないのは寂しいけれど、この寂しさを感じられたことは幸せだと思う。
この寂しさと幸せを持って今日も生きていく。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
この猫みたいな人になりたいなぁ。


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