人は関係し合っている
引っ越しを終えて、一息ついたところで、これを書いている。
清掃の仕事をしている同郷の友人が大きな社用車を手配してくれて、荷物の運搬を手伝ってくれた。
車中ではドラゴンボール、特にフリーザの話しでなぜだか盛り上がり、思い出話しや新天地での話しにはびっくりするぐらいならなかった。
彼も僕にも、一言では言い表せない複雑な感情があって、だからこそ普段通りに。だったのかもしれない。
じぶんのInstagramに慣れ親しんだ川縁の風景を載せた。
背景を知る友人からは、今までありがとう。とメッセージをもらって、これもやはりお互い一言では言い表せない何かがあった。
引っ越しの前日に、当日にわざわざメッセージをくださる人もいた。
清々しいことばをいただいたが、それも清々しいことを伝えたいと選んでくれたのであって、混じりけがないということではもちろんない。
こういううれしいし、めでたいし、さびしいし、悲しいし、でも応援しているというような複雑さは、じぶんがその関係性の中にきちんと居て、関係し合うことで起こるのだと思う。
そしてだからこそじぶんの、他の人の変化で、もともとあった型や形がずれたり、崩れたりすることで起こる気持ちが、この混じりあった感情で、その瞬間は何とも言えず苦しい。
だが苦しいと感じるほど関係し合っているからこそ、苦しいのだと思えば、苦しいという気持ちはどこか和らぐ。
苦しさは、複雑な入り交じった思いは、関係性の証だからだ。
じぶんは多くの人の関係性の中に、流れの中にいるのだなぁと、いることができているのだなぁと、引っ越しを通して気づくことができた。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
好きな人と会って、解散した後の一人の帰り道とかに感じるあの何とも言えない感情が、今日書いた感情に近いと思います。
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