見出し画像

やっぱり僕は争いたくない

僕は争いと暴力が大嫌いだ。

それはなぜだろう?ふと考えてみたら
僕は人生で殆ど一度も人に手を出した事がない。

口喧嘩したときも、思いっきり殴られたときも
僕は相手に手を出したことは一度もない。

僕はいつでも「殴られる側」の人間だった。
でも、いつでも抵抗はしなかった。


同級生からは気が弱いと言われるし
先生からはもっと強くなれと言われた。

でも僕が強くなろうと思うことはなかった。

そんな事をする暇があるならば
自分のやりたい事、やるべき事に打ち込んだ。

僕は究極のマイペースなのである。
他人の為に努力する事に価値を感じていない。

その努力は次の争いを生むだけなのだと
何気なく幼い僕は理解していた。

そして、「やり返すこと」ではなく
「誰かに助けてもらう」「相手から逃げる」
この2つで大体のことは解決してきた。

人を叩く人間は、本当はとても弱い生き物だ。
自分より強い人間に咎められたら何もできない。

そうして僕は、とことん強い人間を頼ってきた。
僕のことをいじめた人は、みんないなくなった。

無論ここでの強い人間は、暴力的な意味ではなく
「何となく逆らえない空気を感じる」という
くらいのものであろう。

そして僕は、争いを好む弱い人間にとって
「自分に逆らってこないであろう存在」だった。

実際に、僕は弱い人間に逆らわない。
そもそも逆らう必要がないからである。

弱い人間が最も恐れている相手を頼るだけで
それが無理でも最終的に自分が逃げるだけで

全て解決されるからである。

大人になってからは、暴力的な機会が減った。

しかし、お金や名声が暴力の代替となっては
それをめぐって人々が争っているように見える。

思い返せば、幼い僕は学校の成績と評価を使って
暴力的な弱い人間を蹴落として、見下してきた。

暴力へのアンチテーゼが、暴力的な思考へと。

僕自身に力がないから、せめて社会的評価だけは
他の人間たちに負けないように意識したのだ。

でも今は、それすら必要がない。

自身の能力と、それに付随する社会的評価を
人を蹴落とす争いと暴力に使うような人間から

ただ逃げるだけで良いのである。

大人は子どもより逃げやすい環境にあるのだ。

やっぱり僕は大人になってもマイペースなので
人の為に努力をして強くなる事には
本当の腹の底から興味がないのである。

争わないし抵抗もしない。
でも人に頼るし、普通に逃げる。

それで良いとさえ思っている。

もう一歩前に進むとすれば、僕は今まで
強い人間に頼って助けて貰ってばかりだった。

だから今度は同じように「殴られる」側の
人間を助けてあげたいと思っているのだが

何度も言うが、僕は人の為に努力をして
ましてや強くなろうだなんて興味はない。

だから、これからも弱いままだと思う。

だけども、そんな困っている人を小さな声で
「こっちに逃げておいで」と声を掛けて
雑音の少ない世界へ連れて行ってあげる事は

唯一、人の為に僕ができる事なのではないか?
そんな事を考えていて、今では確信している。

やっぱり僕は争いたくない。
でも争いが好きな人間は身近にいるものだ。

だから僕は、誰かに頼られるようになりたい。
そして安全な場所へ逃がしてあげたい。

あくまで非暴力、不服従なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?