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末寺の末事 103

 何かを行うということには、目的があります。目的がない行いには、無目的という目的があります。

 大抵の場合、この目的とは利益・メリットをイメージさせられるのですが、コミニュケーションという、心(意)の共有・伝達という言動(口・身)=行い(業)を、これに当て嵌めるとすると、そこには論理的合理性など、かなり現実的な意味を求められるような気がします。

 要するに、共に有したり、伝え達するというコミニュケーションには、そうしようとしている側に、そうすべき(または、そうしようとしている)対象が、しっかり認識されていることで、目的の存在が担保されるという、まあ、あたりまえっちゃーあたりまえのことなのですが…、それが意外と、実際はここの部分がアヤフヤだったりしているように思うのです。

 コミニュケーションに利益やメリットを求め過ぎると、何だか仕事みたく業務的になっちゃうからかな。

to be continued



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