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【エッセイ】愛犬が一万円を稼いできた話

「お父さん、さつきが何かくわえとるよ」
 父とともに散歩から帰ってきた愛犬を見て、私は言った。
「それな、さっきから離さんのや、どれ」
 そう言って父はさつきの口に手を伸ばした。

 さつきが我が家へ来たのは30年以上も前(この事実に一番驚く)私が中学生の時だった。マイホームを建てたはいいが、数年後に単身赴任になってしまった動物好きの父が、母に黙って保健所からもらってきた犬だった。
「保健所に元気な仔犬がいたら譲ってほしいってお願いしとったんや」

 しばらくは適当な仔犬が見つからなかったが、たまたま保健所に引き取られた犬がそこで出産したと連絡が来た。父が見に行ったところ一匹だけとても元気な仔犬がいた。ただ、雌だったため父は一瞬迷ったらしい。しかし、結果的に元気なことを優先し、我が家に来ることになったのだ。

 5月生まれだった仔犬は「さつき」と安易に名づけられ、ダンボールに入ってやってきた。 
「電車が止まるたびにダンボールの中でキュンキュン泣くもんで、周りから不審な目で見られたわ」
 そもそも電車に乗って仔犬を持ってくる父がおかしいし、駅員さんによく怒られなかったものだ。今だったら完全に不審物だ。

 父の掌に乗っているさつきは見た目完全にハムスターだった。あまりにも小さすぎて、まだ目も開いておらず、ただひたすら鳴いていた。
 父は世話の仕方を一通り我々に教えると、また電車に乗って赴任先へ帰っていった。残された母、中学生の私、小学生の妹(双子)にはもう不安しかなかった。

 我々の心配を他所に、さつきはグングン育っていった。黒柴のような見た目で、とにかく脚が早く、我が家では「黒い弾丸」の異名を持っていた。誤って鎖が外れようなものなら、勢いよく隣の畑を駆けずり回っていた。そうなると人間の足では到底捕まえることはできない。そんな時は母が車を出し、さつきを追いかけた。なぜならさつきは車に乗るのが大好きだったからだ。近くまで行き、私が車のドアを開けて叫ぶ。
「さつき、お出かけ行くよ!」
 するとさつきはまた勢いよく向かってきて、飛び込むように車に入る。そしてドアを閉めて捕獲完了となる。もちろん帰る先は家だ。そんなことを何度もしていたが、これに関してはさつきの学習能力は更新されることはまったくなかった。
 
 そんなさつきは散歩も大好きだった。最初は一日二回だったのが、そのうち朝夕夜の三回に変わる。体力あり余り過ぎな犬だった。いつの間にか単身赴任が終わっていた父が夕飯後にさつきと散歩に行くのが日課になっていた。
 さつきは家族の中で一番父が好きだった。一番接している時間が少ないはずなのに父LOVE。母はいつも「一番面倒見てるのは私なのに」と愚痴っていた。サツキの中での順位は、父、母、さつき、私、妹'sだったに違いない。
 
 ある週末、いつものように父とさつきが散歩に行き、戻ってきた時に事件は起こった。黒っぽい何かを咥えて離さない。父が無理矢理口をこじ開けて、それをつまみ出した。それは泥に塗れて小さく折り畳まれた紙だった。父がそれを広げた。
「これって…」
 手にあったのはお札だった。父は洗面所に行き、周りの汚れを水で落とした。すると現れたのは、一万円札だった。
「さつきが一万円拾ってきたの?」
 母も驚き、さつきを見る。さつきはあれだけ執着していた紙切れにはもう興味を示していなかった。

「この一万円、どうするの?」
「そりゃ警察に届けるしかないだろう」
 生真面目な父は当然のように言う。そりゃそうだが、犬が拾ってきましたと言ったら警察も笑うしかないだろう。笑いながら困った顔をした警察官の顔が思い浮かんだ。
 その後、父は本当に警察に行き、一万円札を渡してきた。提出書類には正直にさつきが拾ったと書いてきたらしい。
「三ヶ月後に持ち主が現れなければ、さつきのものになるって」
 帰ってきた父はさつきを撫でながら言った。書類を見た警察官たちは「犬が拾ったんですか?!」と驚き、やっぱり笑っていたらしい。警察の中でもこんなほのぼの事件、なかなかないだろう。その日の職場の話題になったに違いない。

 三ヶ月後、案の定持ち主は現れなかった。父は再び警察に行き、一万円札をもらってきた。そして次の日ホームセンターへ行き、さつき用のベッドと大量のドッグフードを買ってきた。
「さつきが稼いだ一万円だから、さつきのために使うのは当然だろう」
 そんな父の言葉に反対する者はいなかった。みんなその通りだと思っていたから。
 さつきは新しい寝床を気に入ったらしく、早速入ってぬくぬくしていた。しばらくはさつきのゴハンにも困らない。自分の食い扶持を稼いでくるなんて、なんて賢い犬なんだろう。さつきはそんなこと素知らぬ顔で相変わらず父に甘えている。やっぱり父LOVEなのだ。

 しかし、残念ながらさつきが稼いできたのはこれが最初で最後だったのである。

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