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【エッセイ】ガレット・デ・ロワが満たしたのは空腹だけじゃなかった

*このエッセイは2021年に天狼院書店HPに別名義で掲載されたものです。一部追記修正しています。

「もう1年近く経つんだ」
 フランスに関するFacebookに紹介されている『それ』を見て思わず呟いた。私がフランスから帰国してもう1年になろうとしていた。

 毎年1月になるとフランスのパン屋さんやお菓子屋さんの店頭を埋め尽くす『それ』。失礼ながら、私の中で決して一番好きなお菓子ではない。けれども、私がこの時期にいつも思い出すのは『それ』なのだ。きっとこれからも変わらないであろう。
 
「今日は誰かの誕生日?」
 ケーキらしきものが入っていそうな箱を持って昼食から帰って来たフランス人の同僚に聞いた。彼女はニヤリとして言った。
「これはガレット・デ・ロワですよ。今日は伝統的なフランスのお菓子の楽しみ方を教えてあげますよ」
 
 それはパリに駐在してそろそろ1年が経とうとしていた頃だった。もともと日本の真ん中に位置する県で小さな市役所の職員である私は、市の方針で派遣している海外駐在員の公募に合格した。私が派遣されたのは、とある政府関係機関のフランスのパリ事務所だった。大学で仏語専攻だったわけでもない。海外留学をしたわけでもない。英語は多少できたものの、フランスにはこれまで行ったこともなかった。もともと青池保子先生の少女マンガ「エロイカより愛をこめて」の影響からドイツが好きで何度も訪れていたが、お隣のフランスは興味もそれほど持っていなかった国であった。
 ではなぜパリ事務所を選んだのか。実はすでに派遣先は一択しかなく、選択の余地がなかったのだ。けれど、学生の頃から欧州への海外留学や海外勤務を夢見ていた私にとっては、どこの国で働くかは特に問題ではなかった。大学時代に叶わなかった夢が、まさか10年以上も経って、しかも市役所に勤務しているのに叶うとは思ってもみなかったのだ。そのチャンスを絶対逃したくはなかった。家族や同僚の支えもあり、私は公募の面接に晴れて合格し、小さなスーツケースと大きなバックパックだけを持ってフランスにやって来たのだった。
 
 私がいたのは総勢9名の小さな事務所だった。9名のうち私を含む3名が日本からの派遣者で、残りは現地スタッフだった。来た頃はフランス語がほとんど話せず不安ではあったが、現地スタッフはフランス語と英語、日本語が話せる人が多かったので私の心配は杞憂に終わった。みんな優しく、初めてフランスに駐在する私はフランス人の同僚たちに仕事はもちろんのこと、生活や文化、習慣についていろいろと教わる日々だった。毎日、日本ではありえなかったことに遭遇する。最初はそれが怖かったり、不安を感じていたりもしたが、時間が経つにつれて段々と慣れてきて、逆に当たり前になってきたように思えてきていた。仕事は大変ではあったが市役所の業務とは違う新しいことを覚えるのは新鮮で、パリの街も少しずつ私を受け入れ始め、フランス語の不安はあったものの初めてのフランスでの生活をそれなりに楽しんでいた。
 
 それは1月6日前後のことだった。昼休みに外出していた同僚が何かを抱えて戻ってきた。ぱっと見、ケーキの箱のようだ。同僚の中で今日が誕生日の人がいるのかと聞いたところ、彼女は「ガレット・デ・ロワ」だと教えてくれたのだ。そういえば、その日の勤務時間終了後、みんなで小さなパーティーをすると言っていたことを思い出す。
 
王様のガレット?
 
 フランスに来て初めて聞くお菓子の名前だ。ガレットはブルターニュ地方のクレープのことを言うが、王様のクレープって何だろう?でも彼女が手にしていたのはケーキ用の箱だった。中途半端な知識のおかげで私の頭の中はまだ見ぬお菓子への疑問と期待でいっぱいだ。早く終業時間が来ればいいのに!
 
 夕方、仕事の後、みんなで事務所の奥にある会議室に集まる。フランス人の同僚たちはみんな楽しそうだ。一体どんな儀式が始まるのか、すべてが初めてでドキドキしてくる。
 ひとりの同僚が箱を開ける。そこには丸く、黄金色に艶めくパイのようなものがあった。しかも紙で作られた王冠が乗っかっている。これが王様のガレット?少なくとも見た感じはクレープではない。けれど「王様」にしてはややシンプル過ぎるような気もしなくはない。もしかして中身が豪勢なのか? それにしては厚さが薄い気もする。
 
 不思議な雰囲気を醸し出しているパイから目が離せない私に同僚が説明を始めた。
「これはガレット・デ・ロワ、王様のお菓子という名前ですよ。アーモンドクリームをパイ生地で包んだものになります。新しい年になった時に家族や友達と食べるんです。実はこの中に『フェーブ』と言われる小さな小物が入っていて、それが当たった人は王様になるのですよ」
 
 ガレット・デ・ロワはフランスにおいては1月6日の「公現祭(エピファニー)」をお祝いして食べるお菓子らしい。みんなが楽しみにしているのは、お菓子に隠されている『フェーブ』だ。もともと『そら豆』という意味で昔は本当に入れられており、19世紀頃からは陶器の人形に変わってきた。キリスト生誕にまつわるお菓子のためそれに関連するものが多かったが、現在は様々なものが入っている。お店によって入っている『フェーブ』が違うため、それを楽しみにいくつものガレット・デ・ロワを買って食べる人もいるとのことだ。街中のお店に飾ってあるものはぱっと見同じような形ではあるものの、実は各店のオリジナリティに溢れているという。それを比べて見るのも楽しみのひとつかもしれない。
 
 このガレット・デ・ロワの分け方にもちゃんとしたルールがあるらしい。
まず、カットする人はフェーブがナイフに当たる時はあるため、みんなの見えないところでカットしてから人数分をお皿に取り分ける。カットした人以外の集まりの中で一番最年少の人がテーブルの下に潜り、誰にどの一切れを与えるかを決め、その人の言う指示に従って切り分けたガレット・デ・ロワが配られるという。
 
 厳格な伝統に従い、事務所の最年少のスタッフがテーブルの下に潜る。彼女がみんなの名前を言うたびに次々と皿が配られていく。密かにドキドキしていた私の前にもそれはやってきた。一見外からは『フェーブ』は見えない。全員に配られると一斉にフォークで切ってみる。

 食べ始めの最初はみんな無言であるが、少ししてあるスタッフが嬉しそうに言った。
「フェーブ、ありました!」
 みんなが一斉に彼女の方を見る。彼女の手のひらに乗せられたもの、それは小さな陶器の小物だった。あれが『フェーブ』なのか。当たって羨ましいなと思いつつも、日本と違い職場で飲み会のないフランスで、こうやってみんなで集まって楽しく時間を過ごすことがとても楽しかった。
 
 ガレット・デ・ロワを食べたおかげでお腹もそれほど空かなかったため、その日は残業をしてちょっと遅くに帰宅をした。
  マンションに着いて正面玄関に入ると、ロビーに大きなテーブルに使用済みの紙皿、ワインやジュースを飲んだ後のコップが散らばっていた。けれど人は数名しかいない。
 
ん、何があったのだろう?
 
 首を傾げたが、すぐに通勤前に見たエレベーターの中の張り紙を思い出した。そういえば、このマンションでも今夜、みんなでガレット・デ・ロワを食べるのでみんな来てねと書いてあった。時計を見ると、針は午後9時過ぎを指していた。確か始まりは7時からだったので、私が帰って来た時間はそれがちょうど終わった頃だったのだ。
 
 その頃の私は知らない人たちが多いこういった集まりにはなかなか参加できずにいた。それは自分の話すフランス語が下手で恥ずかしいと思っていたことがひとつの理由だった。
 フランス人は男性女性問わずおしゃべりが好きであり、興味を持って色々話しかけてくれる。それは嬉しいことではあるものの、当時のうまく自分の意見や考えを表現することができなかった私は上手く会話できない自分自身にイラついていた。そのため、まだ積極的に話せずにいたのだ。そんな私は、本当は色々な集まりに興味があるはずなのに、そうでもなさそうに振舞うことを自分に強いていた。
 
 今夜はみんな盛り上がったんだろうなと思いながらエレベーターに向かう私を、ロビーの隅っこで飲んでいた管理人や他の住人たちが見つけて声をかけてきた。
「今帰ってきたのか。もう9時だぞ、今まで仕事をしていたのか?」
「日本人は何でそんなに仕事が好きなんだ、働きすぎだよ。フランスにいるんだろう?もっと人生を楽しまないと損するぞ」
「ワイン飲むか? あ、もう残ってないや。あはは、飲みすぎちゃったよ」
 みんな一斉に話しかけてくるが、面白いくらい誰一人として会話が成り立っていない。
 私はみんなの勢いに負けつつ、たどたどしいフランス語で答える。
「今日は仕事がたくさんあったから遅くなっちゃった。みんな楽しんだんだね」
「そうなんだ、さっきまでたくさんの住民がここにいて、みんなでガレット・デ・ロワを食べてたんだよ」
 管理人たちが紙皿を片付けながら言う。たくさんの紙皿だ。きっと多くの住民が来ていたに違いない。
「それにワインもたっぷり飲んでいただろう?」
 コップに残ったワインを飲んで笑いながら住民も付け足す。それを聞いてみんなが「そうだ、そのとおりだ」と笑う。空になったワインボトルが何本もある。結構な量を飲んだのだろう。みんな陽気な感じだ。
 
 そんな集まりを企画してくれた管理人たちは24時間交代で3人いるため、唯一毎日顔を合わせている人たちだ。最初はお互い挨拶もぎこちないくらいだったが、今では多少の冗談も言えるくらいになった。私がなかなかうまく話せないことも理解してくれ、なるべく分かりやすい言葉を選んで伝えてくれる。3人とも優しい人たちだ。
 
「これ、君の分だよ」
 突然、管理人のひとりが紙皿を差し出した。その上にはガレット・デ・ロワが一切れ乗っている。私は驚いて彼の顔を見る。
「私のためにわざわざ残しておいてくれたの?」
「もちろん、君はここの住人のひとりだしね」
 彼は当然だろうという顔をしている。私はその紙皿を受け取る。大きな一切れだった。
「どうもありがとう」
 お礼を言うと、彼は嬉しそうに笑った。
「こんな遅くまで仕事をして疲れただろう。これを食べたら元気になるよ。ワインも持っていくかい?」
「いや、このガレット・デ・ロワだけで充分。ありがとう」
 別の管理人が私に言う。
「来年はみんなと一緒にここで食べよう、いいね?」
「うん、そうする。約束だね」
 私は泣きそうになるのを堪えながら笑顔で彼らに答える。彼らは優しい眼差しでエレベーターに向かう私を見送ってくれた。
 
 部屋に入り、コートやカバンを片付けてから椅子に座る。小さなテーブルの上には先ほどもらったガレット・デ・ロワがある。今日2つ目のガレット・デ・ロワだ。ちょっと食べ過ぎかなと思いながら私はそれにフォークを入れる。
 
カチッ
 
 何かがフォークに当たった。急いで奥をほじくってみると、小さな雪だるまの陶器がコロンと出てきた。それは『フェーブ』だった。私は目の前に出てきたものに驚きつつ、段々と込み上げてくる何とも言えない嬉しさを感じていた。そして私にガレット・デ・ロワを残してくれていた管理人たちのことを考えた。まさか最後の一切れに『フェーブ』が入っていたなんて、誰も思ってもみなかっただろう。私は彼らの温かさに感謝し、欲しかった『フェーブ』が当たった嬉しさに自然と笑みがこぼれていた。
 
 その日に食べた2つのガレット・デ・ロワが満たしたのは私のおなかだけではなかった。日本から遠く離れた国で暮らす私に人の優しさを教えてくれた。その時、「言葉」に囚われ過ぎていた私は、言葉はうまく伝わらなかったとしても気持ちは伝わるのだと理解した。そして「言葉」を言い訳に人を遠ざけていた私の愚かさにも同時に気が付いた。私は何に拘っていたのだろうか。下手なフランス語でもいいじゃないか。それよりも少しでも自分の気持ちを伝える努力をするのが大事ではないのか。私を気にかけてくれる人たちに感謝を伝えることが大切ではないのか。
 私はポロポロと涙を流しながらガレット・デ・ロワを頬張った。そして、その時に誓った。これからはフランス語を積極的に話し、多くの人たちと関わろうと。
 
 その後、駐在中に何度かガレット・デ・ロワを食べる機会はあったが、いつも思い出すのはこの時に食べたものだ。それはきっとこれからも変わらないであろう。

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