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知的生産に立ち返る:note投稿方針の転換

今年のテーマ

唐突だが今年のテーマは「粛々と」である。ここに至る経緯はいろいろあるのだが、いちいち整理する気はない。とにかく、自分が決めたことを着実に前に進めるために行動していきたい。

そのために見直したことは、第一に健康である。睡眠を最優先事項にした。それにより、日々の余計なマイナス思考が減り、やるべきことに、前向きに取り組めるようになった。

脳の容量という問題

やるべきことと書いたが、それは端的に「地理学」と「仕事」である。この1年は、両方のインプットとアウトプットの量を格段に増やす。地理学についてはこれまでは勉強することに留まっていたが、明確に研究することに主眼を置く。とはいえ研究テーマを決めたわけではないので、現在は興味のある論文リストを作っている。仕事については希望部署ではないものの熱量を持って取り組めそうな環境に移ったので、自分なりに試行錯誤していくつもりだ。

つまり、まったく新しいことを2つ同時に始め、ハイペースでインプットしていく必要に迫られている。これをやってみてすぐに限界を感じた。頭の中だけで処理しても、せっかくのインプットをどんどん忘れていってしまう。これでは意味がない。

梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波書店(1969)

このような経緯があった中で、久しぶりにこの本を開いてみた。卒業時に恩師からいただいた本だったが、当時はそこまで面白いと思えなかった。しかし今読むと本当に宝の山のような感じがする。当時は適当にインプットしていても問題にはならないくらいしか勉強をしていなかった。必要性に迫られた今だからピンときたのだろう。

内容としては知的生産のための情報整理の方法について書かれており、「京大式カード」と呼ばれるカードを用いる。B6サイズの大きめのカードに、1枚1トピックで何でも書いていく。とにかくノートの代わりにカードに書いていくのだ。そして書いたカードを日々整理しがてら眺める。気づいたことがあればそれをまたカードに記していく。

私はさっそくこれを取り入れることにした。YouTubeでカードの手本を見たくて検索すると、大学受験の暗記法として紹介されている動画が何本も出てきたがこれは間違いである。京大式カードの目的は「知的生産」であり記憶することではない。もっと言うと、知的生産を可視化することで「知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞく」p96、ことが目的である。これは、今年のテーマである「粛々と」と完全に一致する。

作例

作品から橋渡し役へ

次に考えるのはアウトプットの方法である。それは研究ならば論文、仕事ならば営業成績である。しかしそれらはどちらもハードルが高く、カードから得た気づきだけでは心許ない。論文とカードの間を埋めてくれるような媒体が欲しかった。そこで白羽の矢が立ったのがnoteである。

これまでのnoteの方針は、あくまで完成した作品を見てもらうことであった。しかし最近は、納得いくまで考え続ける前に時間切れが来てやめてしまっていた。noteを出したいとはずっと思っているので、どのくらい投稿へのハードルを下げるかが悩みどころになっていた。

このような悩みと、インプットとアウトプットの橋渡し役が必要という状況が重なり、私はnoteの方針転換を決意した。今後は完成した作品を出す場というよりも、日々カードを生成していく中で得た新しい気づきなど、自分の意見として出てきたものをどんどん記録する場所にしていく。その蓄積が、やがて研究という行為に繋がってくれればと思っている。なお、仕事の方も同様の目的で、別アカウントにて投稿する。都合上匿名でやろうと思うので、気づいてもそっとしておいて欲しい。

勇気を持ってしょーもない気づきを記す

(カード式は)無限にゆたかであるはずの、わたしたちの知識や思想を、貧弱な物量の形にかえて、われわれの目のまえにつきつけてしまうのである。カードをつかうには、有限性に対する恐怖にうちかつだけの、精神の強度が必要である。

梅棹(1969)pp61-62より引用

おそらく、今後の私の投稿は自分でもしょーもないと思う内容が多くなるだろう。これまで一つの投稿に少なくない時間を使ってもそう感じるのに、なおさらである。それは、梅棹先生が言うように自身の知識や思想への過大な評価、妄想であり、強がりである。今必要なのは、自分が本当にしょーもないことしか言えないということを認め、それでも一歩ずつ歩みを進めることではないか。そういう決意を込めて、投稿していきたい。

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