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母親が子供を里子に出す多くの理由は「厄介払い」だった

父親が子供を育てた時代

 17世紀、寺子屋の普及に伴い、「子供を教育しよう」という価値観が広まっていった。その頃には、今でいう誕生日会や成人式のような、子供の誕生や成長を祝う儀式も普及しつつあったらしい。
 また、捨て子に対する認識が変わったのもこの頃で、幕府が捨て子を減らすための法規制をしたのである。しかし、貧困という根本的な解決はされていないのが当時の現状だったので、貧しさのあまり子供を捨てざるを得なかった家庭も多かった。けれど、以前のように馬や牛に踏み潰されるといった(また、その光景が当たり前だった)悲惨な光景を見ることは、法規制のおかげか減りつつあり、捨て子を保護しようと活動する藩も出てきた。
 しかし、まだ当時の人たちの間に「お母さんが子供を育てることが当たり前」という育児に対するバイアスはかかっていなかった。
 ある歴史学者は、江戸時代を「父親が子供を育てた時代」と呼んでいる。
 当時にも育児書というのは存在していたが、読者層が今とは違い、男性が圧倒的に多かったそうだ。また、現代の育児書の著者は女性が多い印象を受けるが、当時は男性が男性に向けて本を書いていたという。
 なぜ、こうも男性が育児書に食いついたのかというと、武士たちにとっては「家」を守ことが大事であったから、特に長男を家長として教育するために父親たちが奮闘していたからである。
 今でいう、家業を息子(主に長男)に継がせたいという考えに似ているかもしれない。当時は「家」を残すことが重要だとされていたので、その家長である父親は育児を自分の”責任”だと考えていたのだ。
 なので、妊娠すれば仕事から離れ、出産後は専業主婦になり「育児は女性の天職だ」という考えはもっぱらなかった。実際には、母親や祖母などが育児をする場合も多かったが、育児に対する精神的負担は現代とは逆で、父親の方が多かった。けれど、現代のような「女性が育児をほぼ全て担う」といったこともなかったので、結果的には父母が共同で子育てをしていたといっても良いだろう。

子供を里子に出す習慣があった時代

 ある歴史学者が発掘した資料を紹介しよう。
 1780年にフランスのパリで産まれた子供の総数は2万1千人。そのうち母親のもとで育てられた子供はなんと、1000人にも満たなかったというのだ。他の子供たちはというと、里子として遠方に送られてしまっていた。
 しかも、この里子に出すという決断をした理由の一つが「厄介払い」だというから驚きだ(現代の感覚からすればだが)。経済的に厳しい貧困家庭にとって、時間と貴重な労力を子育てに奪われてしまうことは重荷に過ぎなかったし、稼がなければ自分の生活が危ないから、女性たちは出産後すぐに職場復帰しなければならなかったことが要因だという。
 また、里子に出した子供が死んだとしても、当時の母親たちはあまり怒らなかったそうだ。やむを得ず里子に出したはずなのに、葬式にすら参加せず、「これであの子も天使になって天国へ行った」と楽観的に我が子の死を受け止めることが平然とできる母親が多かったという。
 もちろん、中には子育てに懸命に取り組んだ母親もいた。けれど、現代の日本のような「母性愛」とやらは決して当たり前のものだという認識はなかった。理由は、貧しい時代の女性というのは、「母親」である前に貴重な「労働者」だったからだ。
 どちらにせよ、子供を産んで自分で育てた母親だろうが、里子に出して平然としている母親だろうが(母親と呼ぶべきかはわからないが)、当時の女性たちは、自分の手で子育てをするということ自体、当たり前のことだとは考えていなかったのである。だから、里子に出すことへの批判もなければ、自分で育てることへの称賛も少なかった。
 どうだろう。子育てに、良い意味で関心がなかった時代とでも言うべきか。けれど、そういう社会では、貧弱な子供が伸び伸びと育つとは考えにくいだろう。デフォルトで「子供が大事」だという一種のプロパガンダを植え付けられた僕たちには一生縁のない環境かもしれないが、子育てに対して、もっとフリーダムにそれぞれが捉えていけるようになれば、偏ってしまって軌道修正が簡単ではない現代の育児の、主に母親の精神的、肉体的負担を軽減できるかもしれないとも考えられないだろうか。

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