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私を選んでくれてありがとう。~がんとともに生きる〜



はじめに

がんには色々と種類がある中、私は希少がん(明細胞肉腫  ステージⅢ)に罹患した。がん治療中・その後も生きている罪悪感を持ち続けて生きている中、明るい未来を発見することができた。

これから綴ることは、全て過去の私が体験し、実際に感じたことである。
あくまで私の体験談であり持論ではあるが、今がんと闘っている方やがんサバイバーの方、その他の方にも是非読んでいただきたい。

※途中、話で出てくるたいちゃん(仮名)とは、私のことである。

第1章  希少がん発覚まで

■突如現れた身体の異変

私はドジながら、よく走り回り活発な子供だった。キックベースのサークルに参加したり、ドッジボールをしたり、とにかく好奇心旺盛な女の子だ。
しかし、8歳のとある日、入浴中に左足に違和感を感じた。打った覚えもないのに、こぶ状のものがあり熱を持っていた。
「もしかしたら知らない間にぶつけたのかな?」と思い、様子を見ることにした。
次の日、そのこぶ状のものはなくなっていたが、明くる日、そのこぶ状のものはまた出現し、数ヶ月の間同じ症状を繰り返した。
子供ながら異変に気付き、母に伝える。
母も「どこかぶつけたんじゃないの?」と言いながらも、不安そうな顔をしており、翌日学校を休み病院を受診することになった。

■病院で検査を受ける日々、そして入院

※以降に出てくる母と主治医の会話については、当時の私は全く知らず、全て数年後母から聞いた内容である。

翌日、近所の総合病院に行き、整形外科を受診した。レントゲンを撮ると「これはガングリオンだね。手術しなくてもいいけど、腫瘤が気になるなら手術して取ろう。」と言われ、日帰りで手術もできるとのことだったので、その日に手術日も決まり、母と私は安心し、私も普段通り学校へ通う日々が続いた。
手術日が近付いてきたある日、母が持病で同じ病院の違う科に受診した際、たまたま「子供が足の脛の部分にガングリオンができちゃって、近々ここの病院で手術を受けるんです。」と話した。すると、母の主治医が「そんなところにガングリオンはできないです。MRIとか精密検査は受けましたか?院内紹介で違う先生を紹介するので、早急にお子さんを連れて来てください。」と母に伝える。
母はその先生の言葉で「まさか…。」と嫌な予感を感じていたらしいが、私に「念の為もう一度先生に診てもらおうか。」と私に伝え、病院を受診することを説得した。
その翌日、学校を休み院内紹介していただいた先生を受診すると、MRIを数枚撮り、触診を行う。
検査が終わると、母のみが診察室に呼ばれ、私は待合室で待っていた。
その時、主治医は母に「ここでは手術できません。専門の病院を紹介しますので、今から早急に受診してください。」と伝える。
母が診察室から出てきて「ここで手術するより、違う病院で手術した方が良くなるみたいだから、1回違う病院へ行ってみよう。」と言われ、私は言われるがままに紹介先の病院へ行き、MRIの検査を受けた。
紹介先の病院でも、母の希望だったのか母のみが診察室に呼ばれて入っていった。
疲れ果てた私はウトウトしている中、母は「お子さんは軟部肉腫の可能性が高く、早急に入院治療が必要です。」と説明を受けていた。
当時の私には何が起きているのかも想像もつかず、まさか自分ががんになっているなんて思いもしないまま、また明日から普通に学校に通えるとばかり思っていた。

翌日、いつも通り朝になり起きると、仕事へ行っているはずの父が家にいた。
すると、父は「病院へ行く準備をしているんだ。今日からたいちゃんは入院することになったけど、すぐに戻ってこれるけん我慢してな。」と私に言った。
私はなんのことか全く理解できていなかったが、理由を聞いても両親無言のままだったので、それ以上理由を聞くことができなかった。

昼前に病院へ着き母が入院手続きをする中、好奇心旺盛な私は、今までに見た事のない広い病院内をウロウロして探検しつつ、これから過酷な闘病生活が始まることを全く知らないまま時が過ぎるのを待っていた。
数十分後手続きも終わり、両親と病棟へ向かう。
見知らぬ子たちや看護師さんが笑顔で挨拶してくれて、病棟内の方たちとはすぐに打ち解けることができた。
私も初めて見る電動ベッドを見て「わぁー!ベッドが動く!!!」と驚いたり、今考えると呑気だなぁ…と自分自身でも感じる。

その日の夕方、両親が「今日は帰るね。」と私に伝えた後、急に私は気が狂うように号泣した。
「なんで帰っちゃうの?なんで私1人でここにいないといけないの?ここで何されるの!?」
両親の口からその答えは帰ってこず、目は潤んでいた。

■入院した際の心境

両親が帰ってしまい号泣していた時、同じ病室の子たちや看護師さんたちが私をなだめてくれた。
周りの子たちを見ていても、その子たちのご両親も帰っていく。しかし、みんな寂しそうな顔はしているものの泣いていなかった。
「寂しくないの?」と同じ病室の子に聞くと、「寂しいよ。でも、ここは病院だから仕方ないじゃん。ここには友達もたくさんいるし、楽しいよ!」と言ってくれて、私も「そうだよね…!ここには新しいお友達や看護師さんがいるし、いっぱいお話しする人がいるから!」と何とか受け入れることができた。
しかし、何故入院しているのか全く知らされていない私は、何故両親と急に離れ離れにならなければならないのかは理解できず、寂しさのあまり消灯の時間になると静かに泣く日々がしばらく続いた。

第2章  私って、がんだったんだ…

■私ががんと知るまで

入院して数日後、私は看護師さんが同じ病棟内の子たちに「〇〇ちゃん、これから抗がん剤の時間だから頑張ろうね!」という言葉をよく耳にすることが増えた。
私自身「がん」という病気が存在することは知っていたが、正直あまりイメージできず周りの闘病仲間の治療の様子を見ていた。
すると、主治医と看護師さんが私の元へ来た。
「2日後に数cm足を切って、このできものが何か詳しく調べさせてね。痛くないから安心してね。」と言い、私はその時に「もしかして私もがんなのかな…。」と感じるようになった。
毎日母も病院に来てくれたが、母に聞いても「大丈夫、良くなるからね!」としか答えてくれなかった。

2日後、全身麻酔で所謂生検手術を受けた。その数日後、母が主治医に呼び出される。主治医が母に病状説明をするためだ。
主治医は母に「極めて悪性度の高い明細胞肉腫という悪性のがんです。90%以上の確率で、肺かリンパに転移します。」と伝え、母は泣き崩れて2人の看護師さんに支えられ放心状態になった。
その後、母は私の元へ面会に来る度に目を腫らしていたが、常に笑顔だった。
私も子供なりに感じるものがあり、その頃には「私はがんなんだ」と確信していた。
何もないようにお互い接していたが、この頃から何となく親との距離感を感じるようになっていた。

■辛い闘病生活の始まり

入院生活を続けていると、同じ病室内の子たちだけではなく、他の病室の子たちとも仲良くなることができ、闘病仲間がたくさんできた。
そして、入院中は学校に通うことができないため、院内学級(自習室みたいなところにテキストがたくさん並んでいて勉強を教えてくれる)にも参加するようになる。
元々勉強が嫌いではなかった私は、闘病仲間とお話ししたり、看護師さんの後を追いかけたり、院内学級に参加したりと少しずつ入院生活にも慣れてきた。

しかし入院生活を続けていると、もちろん抗がん剤治療も始まり、他に転移している箇所がないか調べる検査もたくさん受けることになる。
心身ともに余裕のあった私も余裕がなくなってくるのは仕方がないことだ。
その間に、病室内の闘病仲間の不幸も重なったり容体が急変したりしている場面を見るたびに恐怖と不安が私を襲い、過酷であり残酷な場面を目にすることが頻繁になった。

心身ともに限界を感じつつ、2000年9月1日。
私は明細胞肉腫を摘出するための大手術(広範囲切除術)を受けた。
さつまいも型に切り、周辺の筋肉と共に腫瘍を摘出するという、10時間以上の大手術となった。
全身麻酔だったため、気付くと手術は終わっており、自分の足や手には、今まで見た事のない大量の管が通っていた。
手術前みたいに歩くことができると信じていた私だが、力も入らず麻酔が切れると激痛で歩くことができなかった。
主治医からも安静にするよう言われていたが、私の負けず嫌いな性格が爆発し、看護師さんに止められる中歩くリハビリを始めた。
しかし、やはり自分が思ったようには歩けず、不安が更に増した。
また、入院して数ヶ月後、病室は私のみになっていたことにも悲しみが溢れ、精神的に不安定になった。

■本当の自分と嘘の自分

その後も、毎日母は病室に様子を見に来てくれた。しかし、時間が経つにつれて私の中での心境が変化していく。
本当は、母に対して「帰りたい。寂しい。そして甘えたい。」という気持ちが強くあり、弱音を吐きたかったが、母も心身ともに限界にきていたようで、以前より活気もなくなり笑顔も少なくなっていた。
私はそこで「これ以上、両親に負担や心配をかけてはいけない。私が笑顔でいたら、みんな笑顔になってくれるはず!だから、弱音は吐かないんだ。」と自然に自分自身の中で強い決意をすることとなった。
実際に私が笑顔でいる時は、母も笑顔になってくれる。看護師さんもお見舞いに来てくれた学校の先生たちも、みんな笑顔になってくれた。
今思うと、当時の私は自分はそうあるべきなんだと必死にマインドコントロールしていた。
そのような日々が続き、本心は弱音も吐きたいが、自分の本心を無理矢理かき消すようになり、自分自身の中で、本当の自分と嘘の自分が分からなくなっていた。

過酷な入院生活が長いこと続いたが、無事に退院の日を迎えることができた。
入院中、色々と支えてくれた看護師さんや主治医ではないがよくお話しに付き合ってくれた先生とのお別れは寂しかったが、自分の中で「やっと学校にいける…!」と思え、すごく嬉しい気持ちが大きかった。

第3章  退院後の葛藤

■両親との愛着問題

退院後、今まで通り両親と生活するようになるが、私は自分の心や両親の言動に異変を感じた。
入院前よりすごく過干渉になった両親、そして両親に本音を言えなくなった私。
両親(特に母)は、すごく私に対して過干渉になり今まで否定や指摘をしなかった内容でもこと細かく言ってくるようになった。
そして私は、どうしたら両親に褒めて貰えるか、どうしたら笑顔になってくれるかと、親の顔色をすごく伺いながら生活するようになった。
入院中甘えることができなかった分本当は甘えたいが、両親が厳しくなったように感じ、甘えることができなかった。
飲食に関しても、両親が「これは食べてもいいよ。」と許可を出してくれない限り食べることができない。
両親も私が小児がんになったことに対して、再発や転移をさせたくないがために、自然と厳しくなり、干渉してくるようになってしまっていた。
毎日がすごく縛られて家での生活にも疲れ、次第に「家にいたくない…。」という気持ちが増していった。

■学校でのいじめ

退院後、学校に通えるようになった私だが、術後間もなかったので定期検診で学校を休む機会が多かった。
勉強に関しては、院内学級のおかげで遅れはなかったものの、体育の授業に関しては参加できなかったり、みんなと一緒に走ることができなかったりと学校生活にも支障が出る。
私が学校に通えなかった間に、同級生内の間でグループもできていて、なかなか馴染むことができず、1人で過ごす時間が増えた。
はじめは自分自身、いじめられているという感覚はなかった。
しかし、急に階段から突き落とされたり、土の入った重いペットボトルで叩かれたり、一緒に遊んでくれなかったりする中で「私はいじめられているんだ。」と認識する。
帰宅後も両親にその出来事を打ち明けることできず、1人で悩んでいた。
その辛い時に救ってくれたのが、3歳から習っていたピアノだ。
「いじめられてても、私にはピアノという友達がいる。」
そう心の中で強く思い、ピアノを弾くことで孤独感をなるべく感じないようにしていた。
この頃はギリギリ自分の中で耐えることができていたが、次第に心が潰れていくこととなるとは、自分の中でも想像ができなかった。

■晩期合併症とPTSD

中学生になり、周りの女の子には初潮が来る中、私はなかなか来なかった。
婦人科へ行き、診てもらうが「ホルモンバランスが崩れているだけ、心配ない。」とホルモンバランスを整える薬を処方されずっと飲んでいた。
薬の影響か、周りとは遅れて初潮がきたが、薬をやめたら何年も来なくなったりと無月経が続く。

また、メンタル面でも異変が出てきた。
今まで闘病生活中に起きた辛いことや悲しいこと、そして、親との確執に関してコントロール出来ていたのに急に自分の中でコントロールできなくなった。
当時のできごとが鮮明に頭の中に浮かんでくる。
自分が自分ではないような感覚に陥ったり、生きていることの罪悪感が強く湧いてきた。
その後、メンタルクリニックを数ヶ所通うが「病気ではない。気の持ちよう。」と言われることが多かった。
自分自身そうじゃないと信じたいが、信じることができない。
言葉では表すことができない悲しさや苦しさ、無念さや孤独感が私を長期間襲い続け、リストカットや自殺未遂を試みるようになる。
3年ほど前、ストレスのあまりか、歩けなくなり数年間寝たきりにもなり、車椅子生活を送っていた時期もある。

「私の事なんて誰もわかってくれないんだ。」
絶望するしかなかった。
しかし、時が経ち、婦人科では無月経が晩期合併症であることが分かり、治療を開始。
また昨年、私の話を肯定して聞いて寄り添ってくれる精神科の先生とも出会うことができ、やっと幼少期の小児がんの影響でのPTSDと親との確執での愛着障害という診断がついた。
「私が悪いんだ。」と責めてしまっても「あなたは全く悪くない!今まで辛い経験したのに、よく今まで生きていたなぁ!」と言ってくれる、とても優しい主治医だった。
私はPTSDの症状で解離する(8歳の女の子が現れる)ことがあるが、解離の症状も「自分を守るために起きているんだよ。」と優しい言葉をかけてくれたり、「あの時(入院中)に亡くなった子たちの分まで、あなたは生きなければならない、絶対に。そうすることが、供養となり、その子たちも天国で喜んでくれるよ。」と言われた時は、涙が止まらなかった。
今はその先生は医者を廃業されたが、私は未だに小児がんでの心の後遺症のPTSDと闘いながら、当時の先生のおかげで少しずつ前を向くように努力することができ「私、生きていていいんだ。この経験を活かしたい!」という気持ちが芽生えた。

第4章  私を選んでくれてありがとう

■私の大きな夢

私の夢は「病気であっても、自然な笑顔で生きていけるようになるようになる環境を作ること」。
これは、どういうこと?と思う方が大半かもしれない。
上記に書いた内容は、暗いお話しが大半だ。
しかし、考え方を変えると、がんになったからこそ闘病中の辛さを理解することができる。
がんになったから、メンタル疾患も経験し、辛いことを尚更経験できたということだ。

自身の経験を、このまま自分の中で終わらすのではなく、今闘病されている方や治療は終わったけど悩みを抱えている方の力になれるように貢献していくことが私の夢である。

そういった夢ができたのも、幼少期に病を経験し、今も晩期合併症やPTSDと闘ってるからだと思っている。
もちろん、未だに辛いことはたくさんあることは事実だ。
しかし、私の経験上、辛いことこそ1人で抱え込まずみんなで助け合うことが大切だと思う。
生きてる間に必ずこの夢は実現する。
そう自分に言い聞かせて日々生きていくと決めた。

■がんサバイバーとして伝えたいこと

この世の中、がんで闘病されている方はたくさんいらっしゃることが現実だ。
また、がんというものは、「治療が終了した=治った」ではないことを伝えたい。
治療が終了しても、晩期合併症や後遺症、そして再発転移の不安で日々怯えながら生きている方もいることを知ってほしい。
昔はがん=不治の病と言われてきたが、医療も日々進歩し、現代は治癒できる可能性がある時代になってきている。

がんになって先が真っ暗になってしまう方もいるかもしれない。
しかし、がんになったからこそやりたい事ができたり、良い意味で価値観が変わったりして生きる意味を見いだせるきっかけにもなるかもしれない。
もちろん、辛いことや苦しいこともたくさんあるが、1人で抱え込まず周りに相談しながらみんなで乗り越えていくと、必ず良い未来が待っている。
だから、決して「諦めないで」ほしい。

今は、がん診療連携拠点病院など設置されている「がん相談支援センター」という機関もあり、がん患者会も存在する。
また、がんサバイバーの方も、サバイバー同士で交流し、情報共有できる会もある。

こういったところで不安なことや疑問に思ったことだけではなく、楽しい話など、色々とお話しして交流の輪を広げていく機会を作ることは、とても素敵なことだと思うし、がんサバイバーの1人としてとても良いことだと思う。

私自身も、がんを経験したからこそ、今までがんの啓発活動を行うボランティア活動に参加させていただいたりする機会もあり、がんにならないとできない経験(たくさんの人たちと出会い、辛いことのみではなく、色々学ぶ機会を与えていただいた)をたくさんしてきた。
これは、きっと今後生きていく上で大きな糧になるだろう。
だから、私は素直に心から思う。

「私を選んでくれてありがとう。」


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