【大人が怒られてく様】…26歳

『私は貝になりたい』という映画がある。
僕の記憶では中居正広さんが主演を務めて大ヒットを納めていた気がする。

しかし、恥ずかしながら僕はこの映画を見たことがない。
見たことは無いけれど
「私は貝になりたい」
という言葉は非常に頭に残っている。

僕が推測するに「私は貝になりたい」とは、この広い世界から消えて、貝のように自分だけの空間に存在したい、という意味なのだと思う。
ついこの間、僕も「私は貝になりたい」と思うことがあった。

アルバイト先でのことだ。
僕のしているアルバイトはポスターや店内ポップを作成するデザインの仕事で、事務所には上司1名と社員が数名、アルバイトが2名在籍している。

上司はとても気さくで冗談を言って場を和ませてくれる優しい人だ。
そして、社員の中でもとりわけ僕とよく話をしてくれるのがケイさんだ。
ケイさんは40歳手前の大柄な男性で、仕事の進みが順調だと饒舌になり、逆に忙しいと小さい声でぶつぶつと自分がいかに大変かをボヤいている、わかりやすい人だ。
誤解されたくないので一応言っておくと、僕は上司もケイさんもとても尊敬している。
時期的に最近はないのだけれど、コロナが流行る前は、この3人でランチを食べに行くこともあったくらい関係は良好なのだ。

その日、ケイさんは饒舌だった。
仕事量としては忙しかったのだが、担当しているデザインが上手くいっているようで、機嫌は良かった。
「いやぁ、今日は早く帰れるからデザインの勉強ができるなぁ」
など、もう帰ってからの自分の予定を口に出してしまうくらいに余裕たっぷりだった。
僕がケイさんと共に、商品を依頼主に送るために梱包をしていると、フラッと上司が現れた。
いつもみたいに冗談を一言二言交わして立ち去るかと思ったのだが、上司は僕の梱包している手を止めさせて、ケイさんに静かに聞いた。

「この枠線なんでこの色なの?」

空調の音だけが響いた。
上司の言葉は優しく、けどはっきりと
《普通この色ではないよね?》
を表していたのだ。

僕は
《頼む、ケイさん、ちゃんと納得する理由を伝えてれ》
と願ったが、ケイさんから発された言葉は
「いや、え、あのそおですねぇ」
だけだった。
僕は終わったと思った。
作り直して梱包して、あぁ残業だ、と。

上司がそれを聞いて
「あぁ、ここもこうした方が良かったんじゃない?ちゃんと確認してって言ってるじゃん。」
「はい、すみません。」
僕は上司とケイさんのやりとりを隣で立ちつくして聞いていた。

僕はこの時まさに
「私は貝になりたい」
と思った。
貝になってこの場にいないものとして消えてしまいたいと。
それができないのなら僕も怒られたい。
怒られているケイさんが羨ましいと思った。
ケイさんには上司から向けられた言葉があるが、僕はただそこにジッと立っていなければならなかったからだ。
あんなに楽しそうだった大人が、徐々にしおらしくなっていくのを見るのはとても気まずかった。
5分ほどやりとりをしたあと上司は
「まぁ、今回は問題無いからいいけど、次から気をつけてよ」
と言って去っていった。
上司からのOKサインを頂いたケイさんは饒舌になるでもボヤくでもなく、ひたすら無言で作業をこなした。
僕は、ケイさんは貝になったのだと思った。

映画で使われていた「私は貝になりたい」という言葉がどういった意味なのかはわからないが、あの場にいた僕は映画の主人公よりもしっかりと「貝になりたい」と願っていた自信がある。


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