見出し画像

伊勢貝マモルの終活⑦

【承前】

13階。息を整える間も置かず、階段室に備え付けられた屋上への梯子に足をかける。視界のスミに、すっかり見慣れた影が形をとった。性懲りもなく。

『……ま、待て。待つのだ小娘よ、我の話を聞け』

一段、二段。施錠されていたらどうしよう。いざとなれば、13階の窓から飛び降りたってそうは変わらない。

『貴様……異世界転生に興味があるのではないか?』

コノヨは初めて影に瞳の焦点を合わせた。

『そ、そうであろう!いいか聞いて驚け、我こそ異世界よりの使者、廻槃界《ニールカーン》を二分する魔王ルヴァーナなり!』

梯子から足を外す。視線は魔王に定められたままだ。

『転生が望みなら、汝にその秘訣を授けよう。心して聞くが良い。一つ、命を粗末にするべからず!今生を健やかに全うせよ!さすれば臨終の折、必ずや我が軍に特別な地位をもって迎え入れてしんぜよう。そうだ色恋などはどうだ?すぐそこにおすすめの』

コノヨは一息で梯子を駆け登った。持ち上げ扉に手をかけ、開く。

『な、なななんで!?』

「せっかく、頭がおかしくなれたと思ったのに」

あの影は未練だ。正気の自分の生存本能だ。夢のような妄想を抱いて、恐怖のないまま死ねると思ったのに。

「わたしは、もう1秒だって"わたし"でいたくないだけなのに……!」

『ちょ……ちょっとまって本当にまってお願い』

追いすがる影を振り払って登り切ると、そこは屋上。

吹き荒ぶ風音をすかして、巨人の足音のような轟音が聞こえてくる。


◇◇◇


マモルは跳んでいた。高く、高く跳んでいた。

跳躍の頂点で宙を掻く足元に「エ」の字の鋼鉄が出現、マモルはそれを踏み抜き更なる高度を稼ぐ。

それはH形鋼の名がつく建材であり、一般的に、構造物の鉄骨として用いられている。

『ほい、ほい、ほい。あららなんだか楽しくなってきましたよほいほい!』

女神である!空中に生み出された鉄骨は自由落下する前の数瞬、マモルの跳躍のための足場と化す。マモルは跳ぶ。H鋼を踏み抜く。数拍遅れで恐ろしい質量が崖下の森林に突き刺さる轟音が響く。マモルの踏み込みは力を増す!

『あっやば。ちょっと高かったかな』

跳躍の頂点と同一高度、垂直に出現する落下鉄骨。先端を踏み付けて跳ぶには高さが足りない。しかしマモルはH字の窪みに構わず足を掛け、溝を駆け登ることで次の足場への推進力を得る。さながら二本のレールの間を行く電磁誘導弾丸のように加速!上がり続ける速度は跳躍の域を超えもはや飛翔のそれだ。踏み抜く!駆ける!飛び上がる!女神はドン引く!

『こわー。これは何としても味方に引き込んで転生してもらわないとほいほい』

13本目の鉄骨を蹴り落としたマモルの眼下にマンション屋上。音に背を向け対岸に向かって歩くコノヨと、追いすがる魔王が見える。もはや高度は十分。マモルは鋼材の側面を足で打ち、飛び込み前転で屋上へと着地する。起き上がり、顔を上げる。目が合う。


コノヨは振り返ってこちらを見ていた。後ずさる足を止めずに。その目には恐怖と拒絶があった。マモルは耐えた。かつて自分に向けられた笑顔を足がかりに、歯を食いしばってそれに耐えた。……マモルはまだ言葉を探している。

女神に「読ませる」までもなく、マモルには分かっていた。自分の"まっつぐ"に解決できる問題なんてささやかなものだ。自分には、彼女を取り巻く問題の何一つ、その重みを軽くすることすら叶わない。マンションの根本から屋上に至るまでのわずかな間、探しに探し尽くしたところで、出てくる言葉などたかが知れていた。

「……やめてくれ、頼む」

適切でも正しくともなんともない、それはただの身勝手な感情。

「頼む、死んで欲しくない」


コノヨは笑った。

泣きながら笑っていた。くしゃくしゃに顔を歪めながら、声も出さずに笑っていた。

「……や、やめてよ。マモルくんが、"お願い"なんて、しないでよ。似合わないよ。そんなお願い……」

コノヨは足を止めない。引きつったような笑いが、絞り出す嗚咽に変わった。

「わたし、マモルくんが悪く言われてるの……笑って聞いてるしかなかった、いつだって」

マモルは全身の血が逆流するのを感じた。一歩目を踏み出す。後ずさるコノヨの足が宙を踏み、その顔から血の気と表情が消える。

マモルは駆ける。必ず助けると誓う。

【続く】

Illustration by しゃく◆wSSSSSSSSk

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?