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伊勢貝マモルの終活⑧

【承前】

――わたし、マモルくんが悪く言われてるの……笑って聞いてるしかなかった、いつだって。

コノヨの姿が視界から消えてゆく。二歩、三歩と踏み出し加速。速度を稼ぐ。

その一言でマモルは、彼女が生きてきた地獄の一端を理解した気がした。崩れゆく家庭を、淀み歪むばかりの人間関係を、彼女はただ守ろうとした。何一つ見捨てられず、すべての方向を同時に向こうと努め、必死に回り続けるうちに、まっすぐに在れない自分自身への憎悪を募らせ続けた。そしてすぐ近くにはマモルがいた。彼女はマモルを見ていた。ずっと見ていたのだ。

四歩目、劣化コンクリートを噛み砕いた靴底が完全なグリップを生みだし全筋力の運動を100%推進力に変える。

マモルは常にまっすぐだった。誰に忖度することも、何を顧みることもなかった。ただ"まっつぐ"あり続けた。亡き祖父の遺言のままに。そこに葛藤も逡巡もなかった。それだけで良いと思い込んできた。たまたまマモルには力があった。貫き通せる力が。

五歩、六歩目、屋上のふちを捉えた左つまさきを支点として体軸と運動エネルギーを九十度回転。飛び出した右足裏が次に打ち抜くのは垂直の壁面。

だがいつからかマモルには分かっていた。"まっつぐ"だけではダメなのだと。いいことを掴んで幸せになるためには、手を伸ばしてなにかを守らなければならない。手が届くか、報われるか、正しいか否かすらも定かならないおそれをおして。それはコノヨが心折れ、優しく輝かしい物語の力によってすら自分を支えきれなくなるほどの過酷な戦場だ。

壁面を蹴って進む。地上に向かって。ライバルは重力加速度。超える。コノヨがこちらを見上げている。

――爺ちゃん!マモルは心の中で呼びかける。足りなかった。"まっつぐ"だけでは、幸せになるには足りなかった。祖父は最期の瞬間、一人残して逝かねばならない孫の為、寂しさと不安で今にも捻れてしまいかねないマモルの為に、その生き方に"まっつぐ"だけでも刻み込もうとした。そしてもう片方は、既に名前に刻んでくれていたのだ。いつかそれに気がつくようにと。マモル。伊勢貝マモル!

青ざめた顔に表情はない。ただ手はこちらに伸ばされている。意図してのものかはわからない。何も望まれていないかもしれない。全てが余計なことかもしれない。何もかも"まっつぐ"でないかもしれない!怖かった。こんなおそれの中で彼女は――振り払う、手を伸ばす!

爺ちゃん!自力では無理だった。でも、彼女に教えてもらったんだ。だからその恩を返したい。俺なんかにはとても出来ない過酷な戦いを続けてきた彼女の強さを、それが間違いであるはずがないということを、かけがえのない気づきを与えてくれたことに対する感謝を伝えるまでは、死にはしない、死なせはしない!

指先が触れる。手首を掴む!引き寄せて抱きしめる。壁面を蹴って跳ぶ……わずかな減速。アスファルトの地面はまだ遠く、しかし無慈悲に距離を詰めて来る。マモルは考える。落下衝撃から腕の中の華奢な肉体を守り切るすべを。考える。考え続ける――


『『『今です!』』』


狭い山道を押し広げ、突如として出現する巨大質量。唸りを上げる暴走トラック。

その前輪は寸分違わず、マモルとコノヨの落下地点に向けられている。

【続く】

Illustration by しゃく◆wSSSSSSSSk

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