『一匹と九十九匹と —ひとつの反時代的考察』ペシミスティック・オプティミズムという生き方
この論文は昭和二十二年に発表された。
①まずは何よりも混乱に気づくこと
冒頭の引用から始める。
冒頭の一段落のなかに、「混乱」の語が九度も現れる。それだけ、当時の福田が混乱を身に染みて感じていたことが伝わってくる。福田は、混乱に慣れ過ぎて混乱のなかにいることを忘れている人々に対して語りかける。まずは混乱に気づくことから始めようと。
だれもかれもがおのれの立場を固執して譲らない。しかしそれは思想や信念の確かさから来るのではなく、むしろその逆であり、思想を持たないがゆえに、時々に変化する事象に捉えられているに過ぎない。
今日どこを見ても思想の片鱗すら見当たらない、ゆえに人間が見当たらない。存在するのはただ事実の断片のみである。なぜそうなってしまったのか。福田は問うて、自ら答える。
論争ばかりしているからだ、と。
論争に関わるのは知性である。知性の最大の特徴は論理であろう。だが思想は、すなわち人間は決して論理だけでは成っていない。
論争とは思想を持たない焦燥から生まれるものだ。それは自己を成り立たせるために他者を否定することに過ぎない。しかし他者の否定は自己の肯定にはつながらない。
思想に決着というものは存在しない。思想史とは二千年の矛盾撞着の歴史のことである。それはたがいに矛盾するものであるからこそ思想であり、思想であるからこそ今日まで生き残っているのである。老子の思想と孔子の思想、どちらが客観的に正しい思想だろうか。質問自体が馬鹿げている。
要するに、この世界には、知性や論理では決着のつかない領域が存在する。それは論争では永遠に解決できない領域である。
明治以来、日本は容易に決着のつかぬ問題を無理に即座に決着させようとしてきた。それは近代化の波の中で、西欧に追いつくことを目指した必然的結果でもある。
それを認めた上で今もう一度、歩きだそう。まずは何よりも混乱に気づくことだ。
②政治と文学それぞれの仕事
この俗論は所謂、歴史の合目的性である。文学も政治も、哲学も科学も芸術も、すべては同じひとつの目的に向かって営みを続けているという考え方である。人々がこのような考え方を好むのは、そのように考えれば互いの仕事を容易に理解できるからである。
だが、と福田は言う。「たがひに相手のいとなみを理解しようとし、また理解したとおもひこむ習慣が、相手をおのれの理解のうちに閉ぢこめてしまひ、その完全ないとなみを妨げる。政治は政治のことばで文学を理解しようとして文学を殺し、文学は文学のことばで政治を理解しようとして政治を殺してしまふ」。(『一匹と九十九匹と ——ひとつの反時代的考察』福田恆存全集第一巻)
『理解といふこと』でも福田は述べているように、安易に相手を「理解したとおもひこむ習慣」こそが、相手の十全な自己発揮を妨げることになるのである。
政治と文学には別々の目的がある、そのように福田は考える。
この聖書の言葉を福田は自分流に解釈する。
政治とは九十九匹のために、文学とは一匹のためにある。政治が十全に力を発揮したならば、九十九匹は救われよう。その期待があるからこそ文学は、また文学者は、残りの一匹を救うことに己れの仕事を全うできる。
仮にこの観点から日本の近代文学を顧みてみると、その薄弱さの原因を、文学者における政治意識の希薄だけに帰することはできない。
つまり、福田は日本の近代文学史を次のように考える。明治以来の政治は十全に力を発揮していなかった。そのため百匹のうちの十匹しか救えていなかった。そこで文学者は本当に救うべき一匹を探すために、残りの九十匹のあいだを探し回らなければならなかった。結果として、真に迷える一匹の所在を見失うことになってしまったのだ、と。
③二元論で世界を捉える
福田は、二律背反を含むかれ自身の人格の統一を信じている。それゆえに、知性によってあらゆる矛盾を一元的に解決しようとする営みに疑念を抱かざるをえない。
その代表的なものとして科学がある。科学というものは、生活を快適にするという効用性の領域でのみ有用である。しかしそれが高じて、人間の文化価値のすべてを科学の対象にしようとするならば、その行為は「知性の越権といふべきか、それとも知識人的事大主義といふべきか、いづれにしても自己を信じえぬ薄弱な精神の所為とせねばならぬ」だろう。(『一匹と九十九匹と ——ひとつの反時代的考察』福田恆存全集第一巻)
現実はあきらかに合理と不合理の領域を並立せしめている。だとすれば現実を認識するということは、この二つの矛盾を矛盾のままに把握することでしかない。要するに、この地点から先において科学は ——また政治も政治学も——無力である。
知性の解決しうる領域で知性を放棄することが神秘主義なのであって、知性の及ばぬ領域においては我々は潔く知性を放棄すべきである。
④ペシミスティック・オプティミズム
福田は、政治と文学の区別を主張している。しかし誤解してはならないのは、福田が言っているは両者の乖離でも、相互否定でもないということである。
反対に福田は、両者の完全な一致を理想とするがゆえに、その方法として、両者を区別するのである。両者がそれぞれの存在と方法とを尊重し合った上で、それぞれの持ち場にいることを願うのである。
これこそロレンスが福田に教えた「ペシミスティック・オプティミズム」であった。彼は文学者として一匹を救うことだけに己れの全てを懸ける、最後に百匹の救いが果たされることを祈りながら 。
あらゆる人間の心の内には、失われたる一匹が存在している。それは政治はもちろんのこと、哲学でも倫理学でも、社会学でも精神分析学でも救えない一匹である。
我々のうちにいるその一匹こそ、文学が訪ね歩く一匹である。
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