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『批評家と作家との乖離について』散文・この不安なるもの

 『批評家と作家との乖離について』(福田恆存全集第一巻収録)は、端的に言えば、福田恆存の作家・批評家としての態度表明として読むことができる。福田は、この論文で、「精神が精神とさしむかひに対決しえぬ現代の文壇的風潮に対して、日ごろいだいてゐる不満」を述べた。

散文というものは切ないものだ。絵画や彫刻に代表される造形美術とは異なる。散文はどうしても、作家の精神と切り離しては存在し得ない。その理由は、散文が言葉によって成っていること、言葉と精神は不離の関係にあることに由来する。福田は言う。

「散文においては作者の精神がそのまま露出されてゐる、といふことは、作者はかならずしも自己の作品を完成と独立とにおいて完全に対象化しえぬといふことである。作者は自己の精神生活をそのまま作品の前後に接続しうるであらう。創作行為は過去の自己への義務を果すものであり、同時に未来の自己に対して責任を要求するものである。」

『批評家と作家との乖離について』福田恆存全集第一巻

散文を書くということは「過去の自己への義務を果すもの」であり、「未来の自己に対して責任を要求するもの」である。これが福田の言う「散文独特の不安」である。言い方を変えれば、散文においては、書く前の生き方と書いた後の生き方が問題となるということだ。

そういう意味で、福田恆存の眼には、彼と同時代の文壇は物足りなく映じたのだと思われる。それらの作品の大多数は、作品の中に精神を見出せない性質のものであった。

「ぼくは批評によつてものをいふ以上、背景には自己の精神と生活とを対決せしめてゐるつもりだが、小説家が作品の完成において手際よく防備の陣を張つてゐるときに、もはやいふべきことばをもたぬのである。ぼくはむしろ作品によつて作者が精神的姿態をそのまま投げだし、ただちに自己の精神の批判を待つことを、正しい文学の態度と考へてゐる。」

『批評家と作家との乖離について』福田恆存全集第一巻

「裸で万人のまへに立ち、かれらの承認か否定かを明瞭に受け入れる雄々しさが必要である。批評をまへにして作者と作品との別を弁解することは絶対に許さるべきことではない。」

『批評家と作家との乖離について』福田恆存全集第一巻

「したがつて散文において完成をいふのは、作品の外に精神を放逐しないこと、『原稿用紙の上に』すべてを使ひ果して、批評にー 批評家にではないー 対して自己の精神と生活とを対決せしめ、あとは無抵抗主義に沈黙を守ること以外にありえぬはずである。」

『批評家と作家との乖離について』福田恆存全集第一巻

散文というものは常に、未完成の内に「無抵抗主義に沈黙を守ること」で、初めて完成を期することができる。そこに「文士の誇りと切実さとをみる」福田の眼は厳しい。

さて、この厳しさに対して彼の同時代の作家たちのうちの何人が、いや過去・現代を合わせたとして、どれほどの人間が耐え得るだろうか。「批評が生き方だ」(坂口安吾)と言うのは、こういうことなのか。こういう厳しい精神のことなのか。

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