『私小説のために』①生活のうちにあって埋没しない精神
すぐれた論はすぐれた問いから生まれる。福田は『理解といふこと』で、理解は本当に美徳か否かを問い、『批評家と作家との乖離について』で、散文とは何かを問うた。では、福田は『私小説のために』でなにを問うか。
つまり、絵画、文学、方法は違えども、自分を描くとは、人間を描くとはいったいどういうことかを福田は問うている。そしてまずある芸術家に我々の注意を促す。
つづけて、福田はゲーテに目を向ける。
私は、上の福田の言葉の中の「それは環境のうちに埋没したたんなる生活者ではない」という箇所に注意を払いたい。我々は誰もが生活者である。肉体を持った人間である限り、生活からは離れられない。そしてその生活というものは、天才、凡人にかかわらず、傍から見れば、総じて地味で、つまらなく、醜悪でさえあるものだ。だからこそ、芸術があるのではないか。福田の主張の本質はそこにあると感じる。
だからこそ、そのような生活に埋没せずに、絶えず生活を超えていこうとする精神が詩ではないか、文学ではないか、自画像ではないか、絵画ではないか、芸術ではないか。
「醜悪を宿命として完成する」ために精神を働かせるのが芸術家であり、「弱点を自己の運命として描き出す」のが芸術家である。決して、身辺雑記の羅列やつまらぬ生活のありのままの告白が芸術ではない。少なくとも、自分を描くとは、そういうことではないのではあるまいか。
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