『急進的文学論の位置づけ』「屈服」こそはまさにはげしい闘争の逆説
この論文は昭和二十三年に発表された。福田は、中野重治の鷗外観に対して疑問を呈する。
中野重治は、「古いものに対する鷗外の屈服」を指摘する。彼は「徳川時代から引きつづいて来た日本の封建的なもの、明治になつて再編成された封建的専制的なもの、これを維持しようため」に奮闘した鷗外を批判する。そして「日本の民主革命のため、日本の文化革命のためには、鷗外を、古い支配勢力の思想的芸術的選手として認め」、また「日本の人民および日本の文学の最もすぐれた敵として認めることが必要」だと言う。
この中野重治の発言を受けて、福田は言う。
福田の感じた腹立たしさは一体何によるものか。それはおそらく、文学が生まれる過程を、すなわち精神のたたかいの意味を、中野重治が全く理解していないことへの腹立たしさだと思われる。
福田は言う。
シェイクスピアはエリザベス女王の歓心を得るために、芸術家の誇りを犠牲にしてまで芝居をつくった。ゲーテはワイマルの宰相として貴族生活をおくりながら、フランス革命には冷淡であり、ナポレオンの前に礼を与えた。モリエールは専制君主ルイ十四世の寵臣であった。セルバンテスは凄惨な宗教戦争のさなか、ぬけぬけと法皇特使の侍僕となりローマに赴いた。また終生熱心なカトリックであり、徴税吏という民衆の憎まれ役でもあった。
要するに、偉大な文学を生み出した人間たちに対して、彼等の政治的・社会的無能力や、その反動的性格、もしくは古いものに対する屈服の態度を指摘することほど容易なことはないということである。
そんなつまらないことを指摘して得意がるよりも、大事なことは、「さうすることによつてしか、かれの文学的完成をはかることができなかつた理由」に想いを致すことではないか。
我々の生活は事実だけ並べて見ればつまらないものだ。寝て起きて、水を飲み、飯を食べ、働いて、病気をしたりしているだけである。科学的に精密に調査すればするほど、我々の生活は、無意味な事実の連続に分解されてしまう。
しかし、誰もそのことには反発するだろう。自分の生活はそれ以上のものであると主張するだろう。自分の生活に意味づけをし、その中に、統一的な主題を求めるだろう。福田の言う「精神のたたかひ」とはそういうことである。
このような文学者の「精神のたたかひ」を、文学者本人の内から眺めてみたならば、鷗外の屈服(それはシェイクスピアの屈服でも、モリエールの屈服でもよい)とは一体何を意味するか。
このような福田の鷗外観、もしくは文学観の裏にあるものは、やはり政治と文学との峻別の態度である。政治と文学両者における、たたかいの性質的相違の認識である。
文学者の精神の側に立ってみれば、一つの作品を作り上げるそのたたかいにおいて、十年後の完成などは意味をなさない。文学における精神のたたかいとは、常にその時々の現実の中で今まさに行われているのだ。その現実がどうしようもなく混乱していようとも、悲惨であろうとも、与えられた現実の中での完成を目指すことしか、文学者にとって文学的完成は存在しないのである。
文学を読者に与える効果の側からしか見られない人間(中野重治)に対して福田は言う。それこそ、政治的であり、反動的であると。
鷗外にとって、自ら置かれた歴史的・政治的・社会的状況と、自己の精神とは渾然一体として切り離せるようなものではなかった。つまり彼にとって生きることは「主体的にいつて徹底的な一元論」であった。
そのような一元的存在であるからこそ、意識の上で「形式的な二元的区別」を必要としたのである。一体何のためにか。言うまでもなく、芸術的完成のためにである。
中野重治よ。鷗外の生活上の「屈服」を見て、彼を近代日本人の「敵」とするのは全くの誤りではないか。むしろ、彼のどうしても「屈服」せざるをえなかった現実をこそ、「敵」とするべきではないか。少なくとも、あなたが文学者としてではなく、政治家としてものを言っているのならば。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?