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科学は飲んでも科学に飲まれるな⑥土地土地の自然の違い

 私は仕事柄、様々な県に住んできた。また旅に出ると、それぞれの土地はそれぞれの自然の雰囲気をもっていることを感じる。

たとえば、岐阜の自然は原生の緑が豊かである。愛知の自然は都会的、三重の自然は神聖な森のようであり、滋賀の自然は素朴で穏やか、京都の自然は造形的、鹿児島の自然は南国的、熊本の自然は壮大であると感じる。

もちろんここでいう自然とは、その土地土地の山や川、緑のある景色から受ける私の主観的な印象でしかない。また県の中の場所によっても雰囲気は全く異なってくるのも承知している。

しかし各人各様感じ方は異なるとしても、土地土地によって自然の雰囲気が異なるということには共感してくださると思う。

そしてその自然の雰囲気は、その土地土地に生きる人々に深く影響を与えているものだと感じる。

それは自分を囲む大いなる自然(自分を超えたもの)をどのように捉え、どのように付き合っているかが、人間を形成していく重要な要因であることを物語っているように思われる。

一方、科学は宿命的に均一化の方向へと向かう。ただ一つの自然像の体系化へと向かう。こんなにも地域差のある自然を、どうして均一化できると考えるのかが私にはよくわからない。

オーストラリアの自然は悠久を感じさせた。真っ赤な夕陽が広大な大地の向こうがわへ沈んでいくのを眺めながら、自分の小さな悩みが空中へ蒸発していった日のことを思い出す。

自然は多様だ。言葉に尽くせないほどに豊かだ。科学が科学のことばで語れる自然は、その中のごくごく一部分でしかない。

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