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「事故予防」の先にある、人間不在

 医療、福祉、介護現場で共通する多くの事故は「誤嚥」と「転倒」ではないだろうか。それは、対象者の多くが高齢であるために多発し、また防ぎきれない現実があるからだと考える。



 現場で「事故」として扱われるものには、「不測の事態」のものも混同されている。そのような中、予防としての対応がなされる。そこでは、個人、そして組織として責任を追求されたくないという思考から機械的な予防対策が実行されているように思う。

 

 ある意味、「誤嚥」や「転倒」は瞬間的、一時的な事象として発現されるため「事故」としての認識が強いのではないだろうか。これらを予防するため、また「事故ゼロ」というキャッチフレーズと共に過剰な事故予防がなされる。ペースト食になると、その後、常食に戻さないことや、身体拘束(車椅子ベルトや椅子から立たせない事も含める)などが行われ、現場での目標が「事故を起こさない」ことになっていく。



 あるべき支援者と支援対象者の人間的な交流は軽んじられ、能率的な管理に推し進められる。それは「事故」に対する現状の認識がそのようにさせているのではないだろうか。



 事故の責任を個人と組織、どのように扱うのかという問題がある。施設で取り組まれる事故報告書(アクシデント、インシデントレポート)は、そもそも組織としての事故に対する経験の蓄積であり、将来に向けた事故リスクを下げる意味を持つはずであるが、絵に描いた餅になっている。個人に責任を帰責する雰囲気が浸透している現実があり、認識の程度は個々人または組織によっても差がある。



 不幸にも発生した事故から学ぶことによって、安全なサービス提供体制の確立のために、個人の責任追及ではなく、ミスによる被害の発生を防止しうるシステムの視点から組織としての責任を強調する必要があるように思う。

 

 さらに、法との関係を考えるうえで、介護領域において事故の裁判例は2000年以降、一定数が公となり、介護施設や介護従事者にフィードバックされ大きな影響を与えている。法の介入が増加していることで、介護サービスのあり方も大きく変容していった。しかし、それが社会にとって良い方向に向かっているのかということである。


 
 法を専門としない私達は、どこか法的なジャッジが下ることで、その結果を「仕方のないもの」と認識し、それは道徳的思想となり、「あるべき支援」や「理想的な支援」とのズレが生じてくる。その為、法的なものとは異なる道徳的、社会的な機能をどのような位置に置くのかが重要な論点となる。

 
 
 施設や病院ではそのような事故を起こすことが絶対悪であるとの認識から過剰な保護が行使される。それは身体拘束や隔離というかたちで出現し、それに伴う深部静脈血栓症や廃用症候群などの問題が置き去りにされる。人権という観点からも、本来あるべき方向に向かっているのか疑問に思う。



【文献】
岩田太(2011)「患者の権利と医療の安全」ミネルヴァ書房
長沼健一郎(2011)「介護事故の法政策と保険政策」法律文化社.P24
長沼健一郎(2008)「介護事故の法的評価と保険対応」生命保険論集第.172号.P57

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