見出し画像

自由律俳句は俳句ではない…のか? ※約3分

毎日、twitterで自由律俳句を呟いている私ですが、ふと

「自由律俳句ってなんだろう」

と思い、ネットで調べてみてみました。

その中で、発見したこと。
それは、次のような意見が意外と多いということです。

「自由律俳句なんて俳句じゃない」

「ただの文だ」

これはちょっと衝撃的でした。

でも、さもありなん、ですよね。
自由律って、俳句とはあまりにも様相が違いますから。

ところで俳句って、何でしょう。

・5・7・5で出来ている短詩
・季語が入っている

よく言われるのは、こんなところでしょう。
では、次の文は俳句でしょうか。

暑いので 友とプールに 行ってきた

5・7・5で出来ています。
季語も入っています。
でもこれを「ただの文」という人がいてもおかしくないですね。

では、これはいかがでしょう。

みんなかへる家はあるゆふべのゆきき (種田山頭火)


季語はありません。5・7・5でもありません。
でもなんだか俳句然としていませんか?

俳句然としていますよねぇ。
はい、俳句然としていますよ。

ここで、「なんだ、俳句然って」という話です。
私の思う「俳句然としている状態」とは、以下のようなものです。

美しい韻を持つ短い言葉がそこにある
その短さでは通常なしえないほどの広がりを持つ
あるいは決して広がらないが、深く深く掘り下げられる

その様相は
ときに滑稽味であったり、
ときに孤独感であったりもする
結果として、読み終えた後に尾を引く

「寂しい」ということを「寂しい」とは書かない。
なぜなら「寂しい」と書いてもあまり寂しくないからです。
だから俳人は

咳をしても一人 (尾崎放哉)

と書くのです。

ときには例外として、感情を書くこともあります。
しかしその場合、伝えたいのは、その感情自体ではないのです。

拙作で恐縮ですが

ナンだけ余って絶望 (タグチユウスケ)

という句があります。
もちろんここで伝えたいのは、「絶望」という感情ではないです。
ナンは余り、カレーが尽きてしまった男の後ろ姿です。

* * *

さてここまで「自由律俳句も俳句だよ」という向きの論調で書いてきましたが、実のところ、私は「自由律俳句が俳句かどうか」にさほどのこだわりはありません。

「冷やし中華は中華料理ではない」

という言い方があります。
たしかに、冷やし中華は中国生まれではないかもしれません。
中華料理店のお品書きには登場しないかもしれません。

でも、冷やし中華は気にすることなく有り続けています。

おそらく冷やし中華自身にとって、あるいは料理人にとって「かどうか」は問題ではないのでしょう。
だって冷やし中華の本質は「さっぱりとしていて美味しい」ということです。
だから、その季節になるとたくさんの人に喜んで食される。

これは想像ですが自由律俳句に対して
「俳句じゃない」
「ただの文」
という意見が出る背景には、
「食べてみたけど美味しくなかったよ」
ということが含まれているのではないでしょうか。

しかし俳句がそうであるように、自由律俳句にも、美味しいものもあればそうでないものもあります。もちろん人によっても美味しいと感じるかどうかは変わります。

そんなわけで私は、自由律俳句が「俳句なのか俳句ではないのか」という問題はあまり気にしないようにしています。
それよりは作り手として、なるべくたくさんの人に美味しいと思ってもらえる自由律俳句を詠みたい、と思うのです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?