会社にいくか、フリーランスになるか。 #自分で選んでよかったこと
あのとき会社にいくことを選んでいたら、
いまも働けていなかったかもしれない。
そう思うと、
フリーランスを選んだのは、
間違いではなかった。
僕は、もともと作業療法士をしていた。
病気や障がいで日常生活にサポートを必要とする患者たち。僕の仕事は、自宅や介護施設で暮らせるよう、『リハビリ』することだった。
会社にいくか、フリーランスになるか。
この選択をした時、リハビリ病院で働いていた。患者50人が入院できる、2階建て駐車場付きのこぢんまりとした専門病院である。
作業療法士として11年目の秋。老人ホームから転職したばかりだった。
働く環境がガラッと変わり、いままでと違うルール、仕事のやり方に適応するのに日々あたふたしていた。
これは、当時のとある一日だ。
文字に起こせば造作もない。ただ、実際は患者ごとのプランを考えたり、書類をつくったりしなければならず、せわしなかった。
職人気質のリハビリ業界には、「経験年数で(なんとなく自然に)上下関係が決まる」という文化がある。
ずっと同じ病院で働いている3年目療法士よりも、他からきた10年目のほうが何でもできる。何でも知っている。
経験年数が「下のものは教わる側(後輩)」で、「上のものは教える側(先輩)」といった構図が自然にできる文化である。
医療ドラマでも、さえないベテランが若手にマウントをとるシーンがあると思う。あんな感じで、リハビリ業界も経験年数で上下関係が決まるところがある。
転職したリハビリ病院は、20代の若手スタッフ中心の職場だった。僕は、「11年目の作業療法士」ということで、(なんとなく自然に)教える側になっていた。
そうした「上のものとしての思い」は、入社してすぐの頃はモチベーションになっていたのだが、日が経つにつれて、だんだんとプレッシャーになっていった。
でも、全部が全部うまくいくわけがない
患者は重い病気や障がいを抱えている。半身不随の患者がほとんどだった。ドキュメンタリーのような「神の手」があればよかったのかもしれないが、そんなものは持っていない。
当然、成果が出せないことも多かった。
50代の男性患者がいた。
重度の麻痺で、左の手足は自力で動かせなかった。子どもは成人していたが、住宅ローンが2年残っていると言っていた。
入院直後はベッドの端に座るのがやっと。それが、1か月もすると片手で手すりをつかんで立てるようになった。
次の段階はトイレで用を足すことだ。
でも、何度練習してもできない。手すりから手が離れると、麻痺している左側に倒れてしまう状態だった。つまり、自分でズボンがおろせないのである。
成果の出せない日々が続く。
自分に対する不甲斐なさや罪悪感がとめどなく湧いてきた。
ネガティブな思考ばかりが頭をよぎる。
僕は、患者ができない原因を分析するのをやめていた。かわりに、成果を出せない自分のことを「ダメな人間」と責めていた。
論理が飛躍している
と思うかもしれない。
ただ、このときはなぜか「自分の技術不足」を、「自分の人格の問題」にすり替えてしまっていた。
このすり替えが、心理学で言うところの『認知のゆがみ』であることはあとになって知った。
自分はダメな人間だ
そう強く思い込んでいた。誰かに助けてほしかった。だけど、現れたのは意地の悪い先輩だった。
「あいつのやっていること(リハビリ)は意味がない」
先輩は、僕の見える場所で、こちらに視線を送りながら、後輩にそう話していた。まるで、ターゲットの見えるところで複数人で悪口を言ういじめっ子のように。
怖い…
すでに30過ぎのいい大人で人の親でもあったが、すごく怖かった。逃げたかった。誰にも言えなかった。
それ以来である。
職場に行くこと、人前に出ることに不安感や恐怖心を抱くようになった。同僚だけでなく、患者も、道行く他人からも、「あいつは仕事しない」「あいつはダメな奴だ」と言われているような気がした。
もういっぱいいっぱい
頭のなかは不安と恐怖で満たされた。まわりの視線や言動が怖くて何にも集中できない。やる気になれない。コンディションは最悪だった。
そんな「上の空」が伝わったのかな。ある日、80代の男性患者を怒らせてしまった。
中途半端にやるなら触らないでくれ!
小さな体育館ほどの広さがあるリハビリ室に響きわたる患者の怒鳴り声と、激しく怒る表情や雰囲気にすっかり心が折れてしまった。
メンタル崩壊
ここから退職まで、さほど時間はかからなかった。
精神科に行った。「うつ病」と書かれた診断書を提出して休職。
一応、復職もしてみた。
だけど、家を出るのもしんどい。遅刻や欠勤をくり返しながら、「なんとか行かなければ!」と自分を鼓舞する日々。
よく、通勤途中にある公園を歩きながら『365日の紙飛行機(AKB48)』を聞いていた。イヤホンから流れてくる前向きなメッセージ。
飛べなかった。
ごめんね。どうしてもがんばる気持ちになれなかった。
だから退職した。
うつ病で退職
いざ当事者になってみると、とても難しい問題だった。仕事がきっかけで発病したとはいえ、「退職したら万事解決」というわけではないからだ。
病気をかかえて無職になった。目の前には背負わなければならない責務がならんでいた。
人生詰んだ
はじめてそう思った。
帰る職場もない。働くあてもない。そもそも働けるのか?誰に何を相談すればいいか?
わからないことだらけだった。
だから、これからの働き方について、思いつくかぎりを挙げてみた。そしたら考えられる選択肢は12こあった。
心身ともに元気ならフルタイム(クローズ)で何ら問題はない。でも、うつ病の症状が残っているとそう簡単にはいかないのである。
ないばっかりだ
嫌になる。でも、突破口は自分で見つけなければならなかった。
そこで、どういう形なら「いまの自分」でも働けるか、セルフ意識調査をしてみた。
結果は、以下の通りだ。
フリーランス一択だった
働く時間が決まっていない、好きな時に休憩できる、他人と距離を置ける、オンラインで完結できる。
おまけに、「クラウドソーシング」というサービスなら、履歴書や採用面接などなく働けるんだとか。
と思った。
さっそく、クラウドソーシングに登録した。「文章を書くこと」ならできそうと思えたから、ライターの仕事をやってみた。
「プロポーズの体験」を書く
これが最初の仕事だ。「飲み会でするような話」がお金にかわる時代なのである。
原稿用紙5枚(2,000文字)のボリュームで報酬は500円だった。
会社に比べれば破格の安さ。
でも、働けたことが嬉しかった。自分の力で稼げたことが自信になった。
よし、フリーライターでいこう!
と意気揚々にはいかなかった
家族がいる。住宅ローンがある。
500円の収入でいいわけがない
妻からは就労移行支援をすすめられた。「段階を踏んで就職を目指してみては?」というアドバイスである。
『就労移行支援』とは、平たく言えば、就職に向けたトレーニングをするサービスだ。18歳から64歳の方が対象で障がい者手帳がなくとも利用できる。
ただ、僕の場合、「就労移行支援は合わない」と思った。
事業所に行けば人がいる。人前に出なければならない。まわりの視線や言動にふれること。怖くて仕方がなかった。
「会社のような場所」に通うくらいなら、フリーランスのほうが勝算があると思った。
結局、妻の理解を十分得ないまま、ライターの仕事をスタートしてしまった。
初月の収入は2,805円
ガス代も払えない。最初はほんとうに収入が少なかった。
だから、いろんなジャンルの案件に応募した。結婚・育児、節約・貯蓄、転職、不動産、書籍レビュー、DIY、医療・介護・福祉、健康、飲食etc。できそうなものは何でも飛びついた。案件にありつけない時は、データ入力や簡単な画像編集の仕事もした。
妻には月収報告した。収入が少ない分は、レシピサイトを見ながら可能なかぎりうまい飯をつくることでカバー。時には自分持ちで食事会を企画。子どもの登下校の付き添い、毎日の洗濯に掃除に。「収入を得る」以外にも、家族を支える方法はたくさんあった。
半年くらいすると、グーグルで自分の書いた記事が出てくるようになった。
「すごいじゃん!」
「最近がんばってるもんね!」
と、妻が言った。
なんとなくだが、フリーライターでやっていきたい、やっていけそうなことを理解してもらえたような気がした。
考えてみれば当たり前である。
「500円の収入」で理解しろというほうが、そもそも無理な話だ。
働く余裕が出てきたからか。(自分に)付き合わされる家族の気持ちに気づいた。
そしたら、もっと家族のためにがんばろうと思った。
2024年 夏
フリーランスの道を選び6年になる
この6年でお得意先ができた。妻の扶養からはずれた。子どもがひとり増えた。主夫業をするようになった。毎日の夕飯づくりに心血をそそぐようになった。
「会社(作業療法士)に戻ろうと思わないんですか?」
時々、聞かれる。
たしかに、収入が安定しない、営業活動や請求業務もある、確定申告もめんどくさい、社会的立場が弱い、万一の補償もない、孤独と、いろいろ大変なところもある。
でも、思わない。後悔もしていない。
会社にいく権利をすて、妻のアドバイスも聞かず、「自分で選んだこと」である。
言い訳はきかない。
すべて自己責任だからこそ、逆境があっても、自分で何とかしよう、何とかしなければと、腹をくくれている。
40歳を目前に。
ようやく自分の人生に
「当事者意識」がめばえてきた。
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