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「推し活」モデルからコミュニティ型「同人活動」モデルへ--東浩紀『動物化するポストモダン』から21年

 思想家の東浩紀が2001年に書いた、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(以下『動ポモ』)を2022年に読みました。とても面白かったので、まだ読んでいない人におすすめします。

 すでに21年も前の本ですが、読んでいるうちに「この『動ポモ』を手がかりにして、前から気になっていた2010年代の「推し活」カルチャーへの違和感について何か書けないか」という気がしてきました。そうして書いているうちに、Twitterのハッシュタグ・アクティビズムや「バラバラの個人が生むムーブメント」についても言及したのがこの文章です。

はじめにーー「推せない」オタクの立場から

 僕は2008年から2012年の頃に、熱の入った漫画・アニメ・ゲームのオタクだった。高校2年生から大学2年生くらいの頃だ。鹿児島の男子校から東京に出てきて、深夜アニメを視聴し、カラオケでアニソンやゲームソングを歌っていた。学校ではオタク仲間と盛り上がり、春と夏には友人と連日コミケに参加していた。
 僕自身はいつの間にかリタイア気味のオタクになってしまったけれど、オタクだった頃の楽しい思い出、特にコミケの高揚感というのは今も覚えていて、いつかまた行きたいと思っている。

 こんなことを書いたのは、社会は常に自分自身を含んでいるのであって、どうしても僕の立ち位置や視点には偏りがあることを示しておいた方がいいと思ったからだ。僕は「推せない」オタクである。

オタクから見た「推し」の謎さ

 さて、2010年代では「推し」という言葉が一般的に使われるようになった。2011年の新語・流行語大賞にノミネートされ、2019年に『大辞林』に掲載されたというから、まさに2010年代を通じて定着した言葉といえる。「推し」にはたいてい「会いに行く」ことができて、グッズ購入や人気投票を通じて、対象のアイドルを応援する。

 これまで「推し」という言葉や文化について、うまく理解できない感覚があった。根本にある「好き」という気持ちは自分にもあるし、共感するのだけれど、自分は「好き」という気持ちが「推し」に変わることはない。むしろ「推し」は避けたい行為である。それはなぜかと不思議に思っていた。『動ポモ』を読んで、オタクであることの楽しさは「公式」や「本人」から遠いことによる「自由」と「熱気」にあるのかもしれないと思った。どういうことか、もう少し詳しく説明したい。

「推し」と公式を動かす欲望

 『動ポモ』で描かれているオタクたちは、オリジナルの二次創作に専念し、決してオリジナルの側、つまり「公式」を動かそうと願うことはなかった。『動ポモ』では唯一の例外として、『デ・ジ・キャラット』の公式キャラクター「うさだヒカル」の名前が公募で決められたことついて言及があるだけだ(注2)。

 偶然かもしれないけれど、「公式サイト」や「公式アカウント」の「公式(official)」は、数学の「公式(formula)」と同じ言葉だ。オタクにとって、公式とは動かせないものだ。特に二次創作の立場からすると、こちらの声で公式が動くとむしろ困るのである。
 
それは東浩紀の『動ポモ』に描かれていたオタクたちにとっても同様だったように思う。公式の描く物語が「小さな物語」で、データベース化しているからこそ、オタクたちは「公式を使って物語を変奏」できた。公式と関わらないからこそ自由があり、政治や資本から離れて、創造性を発揮出来たのだ。

 もちろん、自由な創作のためという表向きでポジティブな理由の裏には著作権の問題があり、そういった意味でも公式とは距離を置くことが必要だったと言える。

オタクの「同人活動」とファンの「推し活」

 オタクの「同人活動」は、オタク同士のコミュニティを前提として、対象となる商品(主に人物やキャラクター)を水平方向に共有する行為である(オタク⇔オタク)。ここには、意図するとしないに関わらず、類似するカテゴリーのオタクへの「普及活動」も含まれる。

 一方でファンの「推し活」は、垂直方向の「推し」である。この垂直方向のイメージは、どちらかというと「推薦」や「推挙」に近い。ファンは対象となるアイドルやキャラクターを「推す」が、推している先は別のファンではなく「運営」である。
 
ファンたちはむしろ、「自分が会いたいからアイドルの握手会や撮影会に行く」「自分が欲しい・周りに勧めたいから商品を買う」というより、自らをアイドルを推す「数」の一つに数量化し、「公式」や「運営」に対して自分の「推し」を文字通り「推薦する」ことが目的となる(上向きに「ファン→推し→運営」となる)。

「推し活」が不気味に見える理由(余計なお世話)

 僕みたいなオタク気質の人間からすると、オタクは結局、熱く語り合い、理解し合える仲間を欲しているように思う。ハリネズミのようにお互いを傷つけ合う危険を承知の上で、その先にある温もりを信じている。ロマンチストなのだ。ロマンチストだからこそ、日本中から真夏の(あるいは真冬の)コミケに、あんなふうにして集まるんだから。

 ところが「推し活」に熱心なファンを見ると、はじめから仲間なんて必要としていないように見える。本人にとっては気楽で、「ひとりがいいに決まっている」という気持ちなのかも知れないが、僕にはどうしても不気味に見えてしまう。
オタクたちが、そこらへんで拾ってきた肉を持ち寄って河原でBBQをしているとすれば(そしてそれは「推し活」勢からは不気味に見えているに決まっているが)、「推し活」にいそしむファンたちはブースが仕切られたお店で「ひとり焼肉」に興じているように見える。
 
そこでは初めから「自分以外のファン」と繋がる必要はなく、他人が持ってきたまずい肉を食べる必要もなければ、自分が持ってきた肉をまずいと否定されることもない。人と関わる必要はなく、あるのは好きな肉だけ、儲かるのは焼肉屋(=運営)だけという世界である。結局僕が感じていた違和感というのは、「それって何かこう、寂しいじゃないか」という、それだけの話だ。

 オタクの立場からの結論としては、僕はつまるところ、「運営」や「公式」、つまり自分の外側の世界を動かしたいなんて思ってないのだ。それどころか、「自分の好きなもの」なんてハブにすぎないのかもしれない。自分と同じものが好きなオタクたちで集まって、カラオケに行って、お酒を飲んで、馬鹿話がしたいだけなのである。

まとめ:コミュニティ型「同人活動」モデルへの回帰

 もう一度まとめると、オタクたちの「同人活動」は公式から離れて距離を取ることが重要で、水平方向に広がるコミュニティが重視されていた。一方で、ファンによる「推し活」はグッズ購入や投票を通じて運営(公式)に働きかけることによって、個人が数となってオリジナルを動かそうという垂直方向の働きが重視されていた。

 東浩紀の『動ポモ』では、インターネットの登場がオタク同士の交流を生み出し、彼らのコミュニティが強化された事例が紹介されている。同人文化の原動力となったのがインターネットの普及であるとすれば、推し文化の原動力となっているのは、紛れもなくTwitterだろう。

 2010年代は、Twitterで匿名の個人がバラバラに発信することによって、数の力で世の中の「オリジナル」や「公式」を直接動かせるんだ、という幻想が信じられてきた。政治を変えるのにもコミュニティなんて不要で、隣近所への普及活動も必要ない、という態度があった。
 これは実に「推し活」的な発想だ。具体的には、ハッシュタグ・アクティヴィズムやツイッターデモと呼ばれるいくつもの活動が、最大瞬間風速だけを残して消えていった。世の中は変わらなかったし、それ以上に分断だけが深刻になった。「バラバラの個人でも数になれば変えることができる」のは、せいぜい「アイドルが歌う順番」や「コンビニの新商品のパッケージ」くらいのものだった。2022年の僕たちは、そろそろこの残酷な事実に気がつくべきだ。

 そこで僕は、政治や社会活動においても、現在の「推し活」モデルからコミュニティ重視のオタク的「同人活動」モデルに移行することを提案したい。
 『動ポモ』でも、同人や二次創作から生まれた設定やキャラクターが公式に取り込まれる例や、公式が二次創作に触発された企画や商品開発を行った例が記されていた。二次創作からプロになる人もいるのであって、政治や社会活動も、まずは活気のある、人と人が集まるコミュニティづくりが必要だと思う。
 何よりコミュニティは熱くて楽しい。楽しくなければ続かないのだ。

(おわり)

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(注1)「9 動物の時代」内、「オタクたちの社交性」のパートなどに、このような趣旨のことが書かれている。厳密には、オタクたちのコミュニティは「『降りる』自由」「コミュニティから離れる自由」を留保しているからこそ繋がっていられる、「現実より虚構のほうに強いリアリティを感じる」コニュニケーションであると言及されているが、2022年の常識を見回してみると「『降りる』自由」がないコミュニティの方が少なくなっている。社会のさまざまな場所でコミュニティが衰退し、バラバラな個人による「推し活」的な文化が浸透した2010年代を経た現在においては、2001年では淡白で表層的だと語られていたオタク的なコミュニティこそが、濃厚なコミュニティであるとも言える。
(注2)「3 大きな非物語」内、「4 萌え要素」のパートに書かれている。デ・ジ・キャラットは若い世代にも、色々と伝説的なアニメとして認知されていると思う。


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