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「○×問題」問題——フェイクニュースは10年後の爆弾である

テストで間違った文章を選ぶ問題がある。あれはよくない。たとえば運転免許の学科試験で、「ワイパーが故障していても走行してよい。」という○×問題があるとする。答えは「×」である。たとえ晴れていても、ワイパーが故障した車は運転してはいけないらしい。

ところが、「ワイパーが故障していても走行してよい。」に○をつけたテストが返ってくるまで、頭のなかではこの文章に暫定的に○が付いている。テストが返ってきたときに、改めてこの○を×に上書きしなければならない。大抵の人は返却されたテストなんて見ない。こうして人は、「ワイパーが故障していても走行してよい。」と誤って記憶する。

「ラベル剥がれ落ち」問題

もっと問題なのは、「ワイパーが故障していても走行してよい。」に正しく「×」を付けた場合でも、時間とともに「×」が剥がれ落ちる可能性である。なぜなら、頭の中に入っている情報は「ワイパーが故障していても走行してよい。」の否定なのであって、否定の部分、つまり「×」とセットで思い出さなければ、間違うことになる。

つまり、「『×』とセットで思い出さなければ間違う」という記憶の方法は、非常に危険である。そこで、

「ワイパーが故障していても走行してよい。」・・・×

という組み合わせは、すぐに

「ワイパーが故障したら走行してはいけない。」・・・○

という組み合わせに変えた方がいい。つまり、世界のあらゆる事象は、「偽の命題」に「×」をつけるのではなく、「真の命題」に「○」をつけて記憶するべきである。そうすることで、偽の命題の記憶に惑わされることがなくなる。

そもそも「偽の命題」を生み出すな説

本当は、「『ワイパーが故障していても走行してよい。』は『誤り』」というねじれた組み合わせを目や耳で認識してしまった時点で、われわれは薄れゆく記憶と、間違いを犯す可能性に身を委ねざるを得ない。

同じようなことは「フェイクニュースのファクトチェック記事」でよく思う。「フェイクニュース」あるいは「ファクトチェック」という見出しのなかに、入れ子状に「フェイクニュース」が入っているこんな記事。外務省も採用「銀ぶら=銀座でブラジルコーヒー」説は誤り - 毎日新聞(注1)

この記事をちゃんと読んだ場合、そのときはもちろん「『銀ぶら=銀座でブラジルコーヒー』は誤り」だと記憶する。ところが、僕は貧弱な記憶力に自信を持って言うけれど、10年後に「銀ぶら」って何の略かと聞かれたら、「『銀座でブラジルコーヒー』の略でしょ」と答えるだろう。むしろ、多くの人は一覧だけ、あるいは視界の片隅で「『銀ぶら=銀座でブラジルコーヒー』は誤り」という見出ししか見ていない。そんな人々にとって、「銀ぶら」の第一候補かつ唯一候補は「銀座でブラジルコーヒー」である。1ヶ月後には「銀ぶら=銀座でブラジルコーヒー」と言いはじめるだろう。(注2)

なぜ人は間違えるのか

たとえば「やってはいけないことリスト」を渡されたときに、人はなぜ、まさにそのリストに載っているミスやタブーを犯してしまうのか。それは、「青の導線を端から2センチのところで切る」が「やってはいけないことリスト」に入っていたか、あるいは「やるべきことリスト」に入っていたのか、忘れてしまうからである。大切なのは、「赤の導線を端から2センチのところで切る」と書かれた「やるべきことリスト」だけを配布して、「間違い」のリストを配布しないことである。

こういう状況も考えられる。英語の先生が黒板に英文を書いて、「これは正しい文章か」と生徒に尋ねる。生徒は「正しいと思います」と答え、先生が「文法的に正しくない!」と一喝する。生徒たちの半分は、そうか、「They is pen.」は間違っているんだ、と思うけれど、それが間違っていたかどうかの記憶はどんどんぼやけていき、10年後に外国人の前で口ごもって何も言えなくなる(「そういえば何が正解なんだ?」)。残りの半分は、そもそも先生の話を聞いてすらいないので、黒板に書かれた「They is pen.」が正解だと思って生きていく。

つまり、「これで大丈夫だと思うか?」「大丈夫だと思います」「だめに決まってるだろ!」という指導は、記憶のラベリングに混乱をもたらすので、やめた方がいい。正しい命題をマントラのように唱え続けることが大切である。・・・本当に?


(注1)さすがリベラルな新聞は、人間の理性や能力を信じているなあ、と感じる記事構成である。

(注2)小説や物語は「偽の命題」のオンパレードだけれど、「創作」というラベルは意外と剥がれずに、また別の場所に記憶されている感じがある。

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