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死生観について

若い人の相談に意外とあるのが死生観についての相談です。
死生観はそもそも宗教観や人生観などが絡む、それこそ個人的な話なのですが、カウンセラーは悩んで散らかった相談者の考えを整理するお手伝いをするのがお仕事なので、余計な口を挟まずにふむふむと聴くわけです。
まあ、宗教観と言っても大多数の日本人にとって神は大自然であり、生活の一部であり、いい年をした父さんにとってはケーキやチョコレートを堂々と食べられる言い訳を用意してくれる存在であり、わずかなお賽銭でお願いを聞いてくれる存在なわけで、仏教徒だという方も自分の心を探求するために座禅を組みますという方はそう多くはないでしょう。
「聖戦で死んだら神の国へ行ける」等と考える日本人は少ないと思います。
神のために命を懸けるというより家族のためにとか友人や恋人のためと言うほうがしっくりくるのではないですか?
死生観はいざという時に考えるものではありません。
命がかかるような場面では、そんなことを考える暇はなく、本能は体を硬直させるか安全だと思われる方向に動かそうとします。
そんな時に命を賭しても危険な方向に足を踏み出させるのが使命感であり、それを支えるのが普段からの死生観なのです。
人は生まれた瞬間から死に向かって時を進む者です。
人間は獰猛な動物に立ち向かい、また安定した収穫を得る為に集団生活を生存戦略として取り入れ、その当時の原始的な本能がしばしば高度複雑化した現代社会に適応できずに誤作動を引き起こしてメンタルヘルスの不全を引き起こすと考えられます。
まあ、何が言いたいかというと、「何のために生きるか」という目標を設定することこそが死生観であり、それが職務なり人生に与えられた課題に直結すれば使命感につながるという事です。
私も一つ間違えれば死亡一直線の爆破現場や実弾の下を潜った経験がありますが、そういう現場で「俺について来い」と一歩際に足を踏み出すためには、平穏な時にしっかりと考えておく必要があるのです。
そういう場面では部下はしっかり態度や顔を見ています。
小手先のごまかしは効きません。

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