見出し画像

『罠』(短編小説)


   おやおや、これはどうしたものかと思って、自然と足が止まった。目をこすって再確認したが、それは間違いなくそこにあった。

   表紙ではメガネっ娘がチラリズムを炸裂させている。なんてハレンチで健康的で文化的なのだろう。異質の融合に心をそわそわさせられてしまった自分が憎い。死んでしまえ。

   世の中には見過ごせない問題が山ほどある。それらに手をさしのべる人間なんてごくわずかで、みんな自分のことで精一杯だったりする。僕は今、試されているのだ。

   さりげなくハンカチを落とす。

   「落としちゃった、拾わなきゃ」。僕自身がそれを拾いたいのではない。きっと拾うように誰かが仕向けているのだ。道端に捨ててあるハレンチ本を自分のものにしようだなんて、そんな品性のかけらもないことを、この僕がやるわけがないだろう。自分では制御できない何か大きな力が働いているに違いない。

   こんな時、どんな態度でどんな心境で拾えば正しいのだろう。思案に暮れていると、そうだ、これしかないと思いついた。僕はこの本をうっかり落としてしまった張本人なのだ。そう強く思い込むことで、平常心でいられるはずだ。

   街ゆく他人たちみんなが僕に注目しているかもしれないと心配するのは、自意識過剰だ。目の前にある。拾う。ただそれだけのことなのだ。そんな些細なことを気にしてあたふたしていては今日という日がすぐに終わってしまう。そう思って、えいやっと脳内シュミレーションの通りに、右手を伸ばした。

   膝を曲げ、腰をかがめる。指先がハレンチ本に近づいていく。あと5cm。あと4cm。あと3cm。あと2cm。あと1cm。ああっ。

   触るか触らないかのタイミングで、ハレンチ本が動いた。まるでそれが自分の意志を持っているかのように。気のせいなんかじゃない。「ば〜か、捕まえてごらんなさいっ」と、メガネッ娘に言われたような気がした。

「おい待てよっ」

   トレンディ俳優ばりにハレンチ本のあとを追う。いや、正確には、「追う」ではなく「引き寄せられている」かもしれない。どれだけ近づこうとしても、一定の距離が保たれたまま、一向に距離は縮まらない。

「ははーん、そういうことか」

   僕は気づいた。目をこらして観察してみると、ハレンチ本から細い糸がピンと伸びているではないか。明らかに誰かが引っ張っている。しかし、その糸がどこまで伸びているのか検討もつかない。まさか、これは罠なのか。モニタリングなのか。

   走り出した特急は止まれない。追跡し続けると、ハレンチ本は老舗アンティークショップのガラス扉の下の狭い隙間に入っていってしまった。

「逃げ足の早い、メガネっ娘めぇぇっ!」

   その時、ちょっとした失望に襲われてしまった。メガネっ娘なんて言葉を恥ずかしげもなく使う自分がいることに。心の中でつぶやいたことはあっても、実際に口にしたことなど一度もないのに。

   「見損なったぞ」と、理性側にいる僕が、僕の頬を軽くぶった。ひどいよ、親父にもぶたれたことないのに。でもこの痛みは、生みの苦しみなのだ。

   僕の心は、宇宙よりも広大。でもその広さに反してまだまだ星の数が足りていない。だからこそ、メガネっ娘という一等星が生まれるかもしれないこの機会を見逃してはいけないのだ。

   老舗アンティークショップの中に入ると、ベベーンとそびえ立った大きなのっぽの古時計が、僕を威圧する。こんな時計なんかに僕は負けない。あの娘が、この店の中に隠れているのはわかっているのだ。

   その時、何の前触れもなく、古時計のまんなかにある大きな木製の丸扉がパカッと開いた。すると、華やかな音楽とともに、白い鳩とバレリーナの人形が出てきて踊り出した。・・・こういうのは心臓に良くない。必要以上に驚いてしまったのは、この背徳感のせいだ。・・・ああ、そうか、ちょうど午後3時になったのか。

   バレリーナはくるくると回転しながら「このドスケベ野郎っ」と言いたげな悩ましい視線を送ってきた。そして、その視線は、店の奥に向けられた。

   ポンと膝を打って、そうかそういうことかと、右手のパーを左手のグーでトンと叩いた。バレリーナの視線は、ハレンチ本の在りかを指しているのだ。

   薄暗い通路には骨董品や謎の物品が所狭しと置かれていて、その隙間を縫うように奧へ進んだ。さながら、秘宝を求めるインディなんとかだ。

   通路を進むに連れて目が冴えてくる。次第に薄暗くて見えなかったものが見えてくる。混沌とした空間の奧に扉があることに僕は気づいた。そしてその扉の前には、女性らしき人影が見えた。

   近づくと、その人影はマリリンモンロー風のマネキンだった。よかった。幽霊とかそういう怖いやつじゃなかった。安堵のため息をふうーっとつくと、突如としてマネキンの目がピカッと点灯した。同時にマネキンの閉じた口から音声が流れはじめた。

「よいこのみんな、おいたはだめよぉ。ここから先は、おとなの世界なの。クイズに答えられたら扉が開くよ! さて、もんだいです。本の表紙の写真には何がうつっていたでしょう」

   僕は少し興奮気味に「ははは・・・簡単すぎだぜ」と小声で呟いた。そしてほんの少しの恥じらいを帯びた声色でその答えを発した。

「メガネっ娘ぉ!」

   しばらくすると、ギギギ・・・と扉が開いた。カッカッカと足音が聞こえる。赤いリボンが付いた紺のブレザー。ロングの黒髪。黒縁メガネ。薄化粧。そこに現れたのは、なんとメガネっ娘本人だった。

「正解です。よくわかりましたね」
「あ・・あの・・・」
「わかってますわかってます。あなたの考えていることはお見通しです」
「えっ」
「この本がほしいのでしょう」

   女性は背中に隠し持っていたハレンチ本を差し出した。受け取ろうと手を伸ばすと、女性はハレンチ本をさっと背中に戻した。

「あっ」
「甘いですね」
「・・・」
「そんな簡単に手に入るわけがないでしょう。だって、この本の中には、私のあんな姿やこんな姿が惜しげもなく詰め込まれているのですよ」
「は、はあ・・・」
「ほしいですか」
「はうぃっ!」

   女王様に飼い慣らされたしもべのように元気よく返事をしたら、声が裏返ってしまった。

「ど、どうすれば・・・・」
「あともう一問、クイズに答えられたらね」
「またクイズ・・・」
「このハレンチな雑誌を、すきか、きらいか、ひらがな3文字で答えなさい」
「・・・うぐぐ」

   「すき」だと2文字になる。なんて意地悪なクイズだ。あれだ。あれに似ている。これは、現代の踏み絵だ。そう、まさに今の僕は悪い奴に虐げられている敬虔なキリシタンなのだ。

「答えられないのかしら? 」
「こ、こんなの・・・ずるすぎる」
「じゃ、この本は諦めるってことね・・・」

   その時、僕はひらめいた。答えに辿り着いた時の僕の表情は、きっと恍惚としていたに違いない。

「よし、じゃあ答えるよ・・」
「どうぞ・・・」

   持てる力のすべてを使って僕は答えを言うよ。答えが言いたい。ああ早く答えが言いたい。答えが言いたい。早く答えが言いたい。あるある言いたい。今すぐ答えを言いたい。

「すっき」

   女性は驚きを隠せない様子で天を仰いだ。そして、おもむろにメガネをはずした。

「・・・・せ、正解ね」
「よっしゃ、ひゃっほうっ! 」
「じゃあ、約束通り・・・・」

   僕は両手を差し出した。そこには恥も外聞もないありのままの僕がいた。その指先はかすかに震えていた。

「税込み30,000円となります」
「え・・・」
「直筆サインも入れときますね」
「・・・」
「なにか問題でも? 私、タダであげるなんて言いましたか」


(了)


#小説 #短編 #短編小説 #ショートショート

読んでもらえるだけで幸せ。スキしてくれたらもっと幸せ。