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エッセイ

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人生の話、フリーランスの話、広告コピーの話まで。TAGOの日々のできごとや考えを綴った文章。
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#エッセイ

いま、どこに立っている?

家にいる。家にいすぎである。見え方によってはひきこもりである。それは僕だけじゃないはずだ。え、あなたは引きこもってない? ああ、そうですか。失礼しました。 相変わらずウイルスが猛威をふるっている。気軽に出かけられるような状況ではない。万が一感染したら家族に迷惑がかかる。 その他にも、外出しない理由が揃いすぎている。2月の屋外はめちゃ寒いし、これから花粉も飛びそうだし、出かけたら無駄なお金を使いそうだし、そもそも自分は自宅事務所のフリーランスだし、仕事の打ち合わせは9割リモ

ああ、そうか。書けなくなるのは、きっと代わり映えのない日常で生きてるからなんだ。

書ける。自分は書けるはずなんだ。 そんな呪文をぶつぶつ唱えても、いざキーボードに指を乗せてみたらぜんぜん進まない。なぜだろう。「なぜ」なんて疑問形でしらばっくれてみたけれど、その原因は薄々わかっていたりする。 人を惹きつける文章を書く人は、人を惹きつける生き方をしている人でもあることが多いように思う。つまり、彼ら彼女らは普段から高い意識を持って日々を気張って活動的に生きているからこそ、日常をそのまま文章にしても素敵に仕上がるんだよね。 比べるのは良くないんだけども、そう

転職活動で祈られすぎて、「神」になったヤツがいる。それは私だ。

かつてこの国の転職には、30歳限界説と35歳限界説があった。 30歳を境に未経験の職種や業界への転職が難しくなり、35歳を境に同業界での転職が厳しくなるという説である。(過去の話ではなく現在進行形の話かもしれない) 私が30代だった当時、そんな話がネットや雑誌などでしばしば語られていた。29歳や34歳あたりのギリギリラインにいる社会人たちは、焦燥感に苛まれて必死に履歴書を書きまくっていた。キャリアアップや報酬アップなどの呪文をブツブツ唱えながら条件の良い求人情報を果てしな

「あの人とは合わないかも」も、「あの人のこと好きかも」も、一人になった時に浮かび上がってくるよねって話。

少なくとも自分はそういうタイプだ。あなたはどうだろう? フリーランスで仕事をしていると、初対面の人と打合せなどを一緒することが頻繁にある。打ち解けるまでは、お互いでお互いを探り合っているような距離感が続いたりする。視線。会話のリズム。会話の間。話への耳の傾け方。相槌の打ち方。沈黙への対処。会話のやりとりをしている内に少しずつ相手の雰囲気や人となりがわかってくるが、結局相手のことをはっきりとつかみきれないままお開きになることも多い。(実際はそんな細かいところまで意識してないけ

えっ、嘘だろ。世界的なアレに、わたしのアレが映っているぞっ!的なやつ

言うべきかどうか迷っていたんですが、 言うことにします。 ずっと口を閉ざしていたんですが、 そろそろ言ってもいいかなと思いました。 やっとそんな心境になれたというか。 映っているんです。 はっきりと映っているんですよ。 あれが、あれに。 ガチでモロです。 tagoの家がですね、 あの世界で人気の国民的アニメに 出てくるんですよ。 ・・・シーン あ、帰らないでください。 まだ話は終わっていません。 ここで帰っちゃったら モヤモヤが残ったまま消化不良になり、 今夜

エッセイは3割増しで書かれている、という説。

誰かのエッセイを読んだ後、 気分が上がるどころか、 逆に沈んだことはないだろうか。 ああこの人は自分が持っていないものを沢山持っているなあ、こんなすごいの自分には到底書けない、ネタにできるような人生経験がない、面白くおかしく感動的に語れるようなセンスや文章力もない、誰かの悩みや社会課題を解決するような知識もアイデアもない、軸となる思想もない、自分には何もない・・・・・・そんなふうに思ったこと、ないだろうか。 隣のエッセイは青く見えるんだよね。 でも、そのエッセイ、めちゃ

一歩目をためらわせる「小説」は、構えずに入っていける「エッセイ」にタイムラインで勝てるのか。

勝てない。たぶん。 小説は「読もう」と構えなきゃ読まない。エッセイは構えずに入っていける気がする。うん、これは僕の個人的な感覚なんだけどね。 事実として、ここnoteでは、小説よりエッセイの方がスキの数が伸びる傾向がある。数字で明らかな差が出てるんだよね。 なぜやろか。興味をそそられつつも、タイムラインに並んでいる小説を気軽にポンとクリックできないのは。 まず、これは僕の仮説だけども、人間の脳(心)は、虚構よりリアルの方が受け付けやすい性質を持っているのではないだろう

「コンテスト」という魔物

コンテストは残酷だ。 選ばれる人がいるということは、当然ながら選ばれない人もいる。しかも、選ばれない人の方が圧倒的に多い。応募総数に対して受賞数はほんの一握り。応募者のほとんどが審査結果で希望が打ち砕かれるシステムになっている。 にも関わらず、多くの応募者が結果発表までの間、「私受賞しちゃったらどうしよう・・・・・・」と心配したり、「俺いける気がするねん」などと期待に胸をふくらませて待っていたりする。 ひどい人なんて、受賞した後の華やかなステージに立つ自分を妄想して一人

初心者が1年間で短編小説100作品を書けた理由。

想像もつかなかった。 小説を書いた記憶といえば、今から15年くらい前に少し通っていた芥川賞作家の小説教室で提出した数作品だけ。そんな数えるほどしか書いたことのない小説初心者の自分が、1年間で100作品もの短編を書くことになるなんて。 これから書く話は、何年も書き続けている手練れの書き手や文学賞を目指すレベルの方の参考にはなりませんが、僕のような駆け出しの人が続けていく上ではちょっとだけ参考になるかもしれません。 初めてnoteに小説を投稿したのは、2019年4月23日。

いま、「想像力の精度」が試されているのかもしれない。

世界がパニックになっている。いろいろな情報や言葉が飛び交っている。 そんな中、個人的にちょっとした違和感を抱いてしまう瞬間が最近いくつかあった。それらに共通しているのは「想像力のなさ」だ。 ソーシャルディスタンス、ロックダウン、パンデミック、オーバーシュート、クラスター・・・こういったカタカナを、聞き手が知っている前提で使う人たちがいる(いた)。今でこそ、会見やニュースなどで繰り返し使われることで、意味を理解した人がそこそこ増えたかもしれない。それなりには浸透した。 で

共感は、正義より弱さに集まる。(映画『JOKER』レビュー)

当記事はネタバレを少し含みます。まだ観ていない方はご注意ください。 『ジョーカー』を観た。今さらだけど。 映画界を広く賑わせ、世界中でさまざまな議論を巻き起こした映画。アカデミー賞では惜しくも作品賞を逃したが、主役を演じたホアキン・フェニックスはその怪演で主演男優賞に輝いた。 先日、ゲオでブルーレイを借り、深夜に一人で鑑賞した。 もともと、noteでこうやってジョーカーのことを書くつもりはなかった。にも関わらずキーボードを打っているのは理由がある。自分を書かずにはいら

変わらず若いままだよ。二度目のハタチを過ぎても。

二十代前半の頃、四十代以降の感覚なんて想像もつかなかった。そして、ものすごく乱暴なことを思っていた。 『四十代以降って、若さも体力も相当失われていて、先(可能性)がほぼ見えていて、“人生の消化試合モード”に入っているんじゃないだろうか』 でもね、実際に四十歳を過ぎてわかった。そんなこと全然ないんだ。 自分の感覚は二十代のころと大して変わってない。極端に言えば、高校生のころとそんなに大差ない気さえする。あっ、決して、自分が成長していないという意味ではない。(実際、成長して

読み手を疲れさせないこと  #わたしの執筆スタンス

読み手が疲れない文章。 それが、noteで何かを書くときの私の軸であり、目指したい理想型だ。エッセイでも小説でもそう。基本的に文章を読むのは体力を使う行為なので、なるべく読み手に体力を使わせたくないのだ。 だから、できる限り、難しい言葉を使わないようにしている。平易な言葉を意識し、読んでいる瞬間は読んでいることを忘れさせるような文章に仕上げたい。 読んでいる途中で、「この言葉どういう意味だったっけ? 」「この言葉知らない」が出てくると、文章が遮断され、読み手のリズムが狂

「以外のひと」を想像すること。

例えば、あなたが5人くらいの人数で飲みにいったとして。 仲良しの仲間で集まったのなら、共通の話題でわいわいやったり、お互いの近況を報告し合ったりするだろう。お酒を飲んで、おいしい物を食べて、好きなことを語り合う楽しい時間だ。 さて、5人いる中で、あなただけが知らない(興味がない)話題が始まったらどうするだろう。そして、その話が4人で盛り上がったとしたら。 まあ当然、あなたはポツンと枠の外にはみ出る。話の内容がさっぱりわからなくてついていけないから、相づちマンになるしかな