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「以外のひと」を想像すること。


例えば、あなたが5人くらいの人数で飲みにいったとして。

仲良しの仲間で集まったのなら、共通の話題でわいわいやったり、お互いの近況を報告し合ったりするだろう。お酒を飲んで、おいしい物を食べて、好きなことを語り合う楽しい時間だ。

さて、5人いる中で、あなただけが知らない(興味がない)話題が始まったらどうするだろう。そして、その話が4人で盛り上がったとしたら。

まあ当然、あなたはポツンと枠の外にはみ出る。話の内容がさっぱりわからなくてついていけないから、相づちマンになるしかない。わからないなりにも理解しようと前のめりになったって、付け入るスキがなかったりする。

ねえこの話いつ終わるの・・なんて顔ひとつせず、精一杯の顔芸でリアクションする。ドリンクのグラスはテーブルと唇の間を何度も往復する。その話題が延々と続くと、次第に表情筋が疲れてきてお地蔵様になっていく。そうなったらもうね、自分の守備範囲の話題に切り替わるまで耐えることになるんだ。

そこで「その話よくわかんない、ついていけない」などと言って割り込んで話の腰を折るのもどうかと思ってしまうよね、大人のあなたなら。

他の4人は、あなたがわからない話題ってことを知らないかもしれない。あなたがその話題をわかっている前提で話しているのかもしれない。もしくは、あなたがわからないことを知っていて置き去りにしているのかもしれない。

これ、個人的に「会話ぽつん問題」と呼んでいる。別にめずらしいことではない。お酒の場に限らず、学校、職場、地域のコミュニティなど、今日も全国津々浦々で起こっているありふれたシーンだ(と思う)。

どこででも起こりうるありふれたことのはずなのに。誰もが遭遇したことがあるはずなのに。なぜだか、気づかない人、もしくは気づかないふりをしている人が結構いたりする。なんとなく彼らは、電車でお年寄りに席をゆずらない人たちに似ている。

まあ、仲良しグループ内での会話において、そんなに目の前の話題に食いつかなくたっていいとは思う。気心知れた仲間との会なら、もっと気楽なスタンスでいいのかもしれない。わからないなら別のことを考えてボケッとしときゃいいんだ。っていっちゃえばそれでおしまいなわけだけど。でも、世の中の人間みんなが気心の知れた仲間でもないわけで。

「私はそういうシチュエーション記憶にない」
「気にしすぎじゃね? 」
「そういうの、綺麗事っていうんだ」
「頭固いなあ」
「お酒の場っていうのはそんなもんだよ」
「一緒にいるだけで価値があるもんじゃないの」
「一人ひとりに気を配っていたら何の話もできないだろ」

そういうふうに、ぽつんとなった“グループ弱者”を切り捨てるのはやむを得ないと主張する人も一定数いるかもしれない。いや、確実にいる。

でも自分は、輪に入れない人のことが結構気になってしまうタイプだ。3〜5人くらいの人数でいる時は特に。

私は過去に、会話の輪に入れない体験を何度かしている。例えばこんなことがあった。数十人いる会で、たまたま座った席のグループの人たちが日本酒やビールの銘柄と味の話をし始めてそれが30分近く続いた。手元のおしぼりがカタツムリになるくらいつまらなかった。お酒を飲まない私には全くわからない。興味を持とうとするが全然話に入っていけない。ジンジャーエールの泡を見つめながら、「えっ、これって実は俺が一般常識を知らなすぎなのか」と、本気で心配したことがある。(一部フィクションが入っております)

あなただってきっと経験があるだろう。別に話題の中心にいたいわけではない。ただ、参加していたい。それだけなんだよ。

そもそもその人の性質にもよるとは思うけれど、ぽつんとなった時の「自分いてもいなくても一緒やん」状態はなかなかきつい。聞き役に徹するのだとしても、自分が知っている話題なら相づちにも力が入るのだけど、全くわからない話題の時にわかったような顔で相づちを打ち続けるのはしんどい。

ただね、気配りできる人もちゃんといるんだよね。

「いま話しているのは◎◎◎っていう◎◎のことなんだけどね、その◎◎がね、今度◎◎することになってね・・・」と、話題を知らない人に対して自然に解説をはさむことができるスマートな人。「ああ、わかってるなあ、この人」なんて、目をパァーッと輝かせながら思う。

ただし、面倒くさいけれど仕方ないから教えてあげる的な態度が見え見えだとがっかりするんだけど。

一人ひとりを気にし始めたらきりがないと言って、開き直ったり切り捨てたりするのは簡単だ。でも私はその空気が好きになれない。たとえ、自分が輪の中にいる立場であったとしても。


この「会話ぽつん問題」の話は、誰もが心当たりのある一つの身近な例として出した。さまざまな場面において、“以外のひと”を想像できる人がもっと増えればいいなと思う。

◎◎を知っている前提で話しても、◎◎を知らない人はきっといる。自分が持っている◎◎を当たり前のように話しても、その◎◎を持っていなくて苦しんでいる人がきっといる。

意図せず、誰かを傷つけているかもしれない。誰かを輪の外に追いやっているかもしれない。誰かを生きづらくさせているかもしれない。自分が当たり前だと思っていることが誰かにとっては当たり前ではないかもしれない。

そういった細やかな想像力が、その人の言葉の端々に、会話の端々に表れると思うのだ。

もちろん、全ての人に完璧に配慮するなんて無理だ。それでも。ほんの少しでいいから、“以外の人”への意識や想像を持って書いたり話したりするだけで、社会はもっと生きやすい環境になるんじゃないだろうか。

この話は、いじめ、差別、マイノリティ問題などにもつながっている。自殺大国のこの国で切実な問題ではないだろうか、なんて、大袈裟かな。


#エッセイ




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