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いま、「想像力の精度」が試されているのかもしれない。



世界がパニックになっている。いろいろな情報や言葉が飛び交っている。

そんな中、個人的にちょっとした違和感を抱いてしまう瞬間が最近いくつかあった。それらに共通しているのは「想像力のなさ」だ。


ソーシャルディスタンス、ロックダウン、パンデミック、オーバーシュート、クラスター・・・こういったカタカナを、聞き手が知っている前提で使う人たちがいる(いた)。今でこそ、会見やニュースなどで繰り返し使われることで、意味を理解した人がそこそこ増えたかもしれない。それなりには浸透した。

でも、やさしくなかった。

こういう緊急時は、お年寄りでもすぐにわかるような言葉で伝えなきゃダメだ。「相手は意味がわからないかもしれない」という想像力が欠けているどころか、「そんなこと知ってるでしょ? 」的な傲慢さを感じる。

日本語とカタカナでは細かなニュアンスが違うのだとしても、すぐに調べたらわかるのだとしても、命に関わる大切なことを伝える時は、相手が受け取りやすい言葉の方がよいに決まっている。得体の知れない言葉で怖がらせる効果はあったかもしれないけれど。

覚えたばかりの変化球を試したくなったとしても、ボールを受ける相手がグローブでキャッチできなければキャッチボールは成立しないよ。



また、緊急時に、ポジティブなことを語りたがるインフルエンサー的な人たちがいる。その瞬間瞬間を生きていくことに必死で悲痛な叫びをあげる人たちに対して、「批判は対立を深めるだけ」「そうカッカするな」 「みんな一丸となって」などと、それらしいことを言う。

うん、確かに間違ってはいないと思う。

でも、耳ざわりの良い言葉や綺麗事を言えるのは、いつだって心や生活に余裕がある人だ。極端な話をするのなら、生きるか死ぬかのような自分の生活に精一杯の状況で、海外の難民キャンプの感染爆発にまで目を向けられる人なんていないだろうし、隣りの県で飲食店が悲鳴をあげているから何とかしようと思える人なんていないだろう。「私たちの敵は人や政府じゃない。ウィルスだ。みんなで乗り越えよう」と声高々に言ったところで、来月の生活費や仕事を誰も保証してくれないのだ。

今を必死に生きている声の小さな人たちには、声の大きな発信者の前向きワードなんて、まやかしにしか見えないこともある。求められてもいない命令や指揮は、その周辺だけに響く空虚な言葉でしかない。政治家やインフルエンサーの彼らは努力してその地位にいるのだろうし、人より何倍も頑張って歩んできたその人生は否定されるものではない。ただ、彼らのその言葉には影響力がある。だからこそ、どう受け取られるか、もっと丁寧な想像力を持ってほしい。

その言葉を聞くことで、逼迫した状況の人はどう思うだろうか。どんなふうに解釈されるだろうか。ネガティブになっている人の心をさらにネガティブに追いやってしまわないだろうか。

そういった視点が抜けていることが多い気がする。そういう意図がなかったのだとしても、結果的に誰かを傷つけていることはある。

映画「ボーン・アルティメイタム」にこんな台詞がある。

『面白いな。どこに座っているかによって、物事は見え方が違うからな』

自分の座っている席から見える世界は、少なくとも全席のうちの一側面でしかない。すごく見晴らしの良い席に座っていても見えない部分がたくさんあるはず。そんな視点があるからこそ、他の席からの景色をもっと想像しようと思える。



言葉は、柔らかい羽衣にも、鋭い刃にもなる。
また、羽衣に似た刃も存在するので厄介だ。

こんな時期だからこそ、発信する人は受け手への想像力をもっと持ってほしいな。そして、この文章を読んでもし傷つく人がいるならごめんなさい。自分自身も気をつけたいと思う。


#エッセイ

読んでもらえるだけで幸せ。スキしてくれたらもっと幸せ。