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読書と戯言「おいしいごはんが食べられますように」:おいしいとふつうは似ている

昔から食べることにあまり興味がない。

食べるよりも寝る方が好きだった。
寝たすぎて両親の「ご飯食べないの?」を数多の狸寝入りで誤魔化した。

おかげでどこに出しても恥ずかしくないもやしっ子になってしまった。

いろんな人に「ちゃんとご飯食べてる!?」と聞かれる。自分基準では食べている、つもりである。

味を感じたり、ストレス発散のための咀嚼に勤しんだりするのは好きだ。

なので、調味料に糸目はつけない。
いい調味料さえあれば材料は割引のものでも充分だと思っている。

しかし、食べる行為、空腹を満たすことについては特に関心がない。

基本的に休日は空腹だとはっきり認識できるまで食べないことが多い。まず腹が減っていることに気づいていない。

17時ごろになってやっと自覚することもある。そうすると、その日は1食しか食べないことになる。

これは「ちゃんと食べてる」に入るだろうか。

さすがに無理がありそうだ。
野生だったらきっと今ごろ死んでいる。



この本を読んだのはそんな人間である。


「おいしい」と思うのは「ふつう」のことか?

「ふつうの生活ができますように」

もし、この本に他のタイトルをつけるとしたらこんな感じかな、と想像する。

しかし「素晴らしい屋上ガーデン」と同じくらいナンセンスと思う。「屋上ガーデンの素晴らしさ」でなければきっと人の興味は引けない。

何が素晴らしいのか。何がおいしいのか。

人はそこに惹きつけられて先を知りたくなるのだと思う。これがおそらく広告とかの手法だ。

すべてのことに思考のリソースを割かねばならないか、というとそれもまた違う。隙が無ければ取っつきにくい。

隙があるように見えて、そのくせ隙間なく構築されている。

そういったものを魅力的、というのだろう。

おいしい、は魅力的だ。

そこで、ふと思う。

「おいしい」と感じるのは果たして「ふつう」のことだろうか?

当然ながら「おいしい」というのは個々によって感覚が違う。

私はパクチーが好きだが、苦手な人には耐え難い苦痛だろう。

自分の脳を喜ばせる食べ物を口に入れたとき、当然のように「おいしい」と出る。

何がそれを喜ばせたのかも分からず反射的に。

何をもって「おいしい」と認識しているのか不思議だ。

そもそも好きな食べ物と嫌いな食べ物があるのは当然のことだろうか。
嫌いな食べ物はあっても好きな食べ物がないことだってあるかもしれない。

好きな食べ物がある人にとって、好きな食べ物がない人はふつうではない。

ふつう、とは広く一般的な感覚に思えるが、実際はかなり狭い共通項なのだ。

少なくとも押尾にとって芦川はふつうではない。

そんな押尾の「芦川さんを嫌いであれば許せる気がする」という言葉に違和感を持った。

許すというのは諦めるに近い。
諦めるということは手放すということである。

無関心であれば手放すことは簡単である。
そもそも関心がないのだから。

では、嫌い、はどうなのだろうか。

その感情は突き詰めれば「嫌い」の一単語ではないのかもしれない。

羨望。軽蔑。嫉妬。卑屈。負目。

ずるい、と、羨ましいが混同してしまう思考の持ち主であれば、芦川のような人間を見るのはきっと耐えられないのだろう、と哀れに思う。

好きと嫌いは、善と悪なのだろうか。
善悪というのも難しい。

紙一重で表裏であって、対義ではない。

この本のおもしろいところは三者三様、誰の立場に近づくかによって、出現する感情が一変するところだ。

しかしその実、どの登場人物にも少なからず共感できるシーンや台詞がある。

誰かひとりだけの立場ではいられない。
この不完全燃焼さを誰かと共有したくなるに違いない。

身近な題材も、150頁という短さも、人に勧めやすい。

酒の席でつまみにすれば、大いに盛り上がりそうである。

伝播する読書体験という新しい読書のかたちが、この本の魅力のひとつなのだろう。

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