「自分の頭で考える」のススメ

1.主体的に生きれば幸せにつながる

我ながら、自分は変わった医者人生を歩んでいるなぁと思います。

なにせ今現時点での私の肩書きはオンライン診療医で兼業農家ですからね(^^)

無農薬かつ無肥料で、自然の力を最大限に活かすやり方で野菜を育てています。

そんなことをやっている医者は私の知る限りどこにもいません。

広い世界の中には似たようなことをやっている医者はいるかもしれませんが、

少なくとも私はそのような医者の存在を知っているわけではありません。

ということは私は、誰に言われるまでもなくこの道を選択したということになります。

言い換えれば、自分の頭で考えて自分の人生の決断をしたということです。

それが正解かどうかはわかりませんが、少なくとも私は自分で決めたわけです。

このように自分の頭で考えて自分で決めていく性質のことを「主体性」と言います。

この「主体性」というのは、人生において非常に有益な性質だと私は考えています。

なぜならば主体的に自分の頭で考えて行った決断というものは常に自分の思う方向へと軌道修正し続けていくことができるからです。

ひいては主体的に人生を生きている限り、必ず自分の思う方向に進んでいくことができるからです。

逆に言えば「主体性」のない人生は不幸へ導かれてしまう、とも思うのです。

だから皆が「主体的」に生きることができれば、理論上は皆が幸せになるはずなのですが、

実際はそんなにうまくいかないという実情があるように思います。

それは何故なのでしょうか。


2.学校では「主体性」は教えられない

「主体的」である、すなわち自分の頭で考えられるようになるためには、

どうしても考えるための材料・予備知識というものが必要です。

材料も予備知識もなく、その問題に対して自分の意見を述べよって言ったところで無理な話です。

だから主体的であるためにはまず世の中の様々な事柄について勉強するということが大切になってきます。

そうすると世の中の様々な事柄について教えてくれる場所と言えば「学校」ですよね。

学校でも「主体性を育む」というようなことを校訓にしている所も多いと思います。

そうすると「学校」に真面目に通ってさえいれば、「主体的」になっていくのでしょうか。

ところで、この「主体性」って本当に教えられるものなのか?という疑問がわきませんか?

だって、例えば「〇〇についての問題がある。主体的に考えなさい」という指導をしたとしましょう。

「〇〇についての問題」について考えるという命題がもうすでに自分の頭で考えたことではないですし、

そこで自分の頭で考えて「〇〇についての問題について考えない」あるいは「〇〇については問題ではない」という選択肢を許容してはじめて「主体性」を育んでいるような気がしますし。

「主体性」を教えるというのは簡単なようで実は難しいことなんですよね。

一方で、そんな風に「〇〇について考えよ」という命題が全く「主体性」を育てていないかと言えば、どういうことでもないと思います。

ただし「〇〇についての問題」の答えが、一定の回答へ誘導されるように仕向けられてしまっていれば、それは「受動的」な教え方かな、と私は思います。

なぜならば、それは主体的に問題を考えているようで、特定の価値観に従うことを是とする考え、言い換えれば自分の考えよりも誰かの考えを大事にする考え方であるからです。

自分の頭で考えた結果、誰かの考えた答えとたまたま結果が一致する、というのであればよいですが、

多分、本当に主体的に考えることを許容する場であれば、答えが一つにまとまるということはないはずです。

でも学校のように集団生活を学ぶ場所、秩序を重んじる場所だと、答えが散逸してしまうと秩序が乱れてしまいますし、

乱れた秩序をまとめようという教師の仕事が大変になりますし、そのまとめる行為がまた主体性を損なうわけですし

・・・なんだか、ややこしい話になってきてしまいましたが・・・、

要するに私が言いたいのは「学校」は「主体性」を学ぶ場として向いていない、ということです。

考えてみれば「受験勉強」なんて、あらかじめ答えの決まっている問題を考えることの繰り返しです。

そこに「主体性」の育つ余地はないです。確かに受験勉強を通じて学ぶ知識はそれはそれで大事なことは理解できますが、

大人になってからの人生では答えの決まっていない問題に遭遇することの方が多いわけです。

であるならば、「学校」以外の場で「主体性」を育む必要が出てきます。

さぁ、どうすれば「主体性」を育てていくことができるのでしょうか?


3.「なぜ?」から始まる「主体性」

冒頭でも述べたように私は主体的に考えることによって、誰も進んでいない医者人生を進んでいる医師です。

そんな私の主体性がどうやって育まれていったのかを振り返ってみますとね。

やっぱり困難な問題に直面した時なのではないかと思うんですよね。

まさに「答えのない人生の問題」に直面した時、ですね。

そんな時に私は思うんです。

「どうしてこんな問題が起こっているんだろう?」

「この問題の本質的な原因はどこにあるんだろう?」

「どうすればこの問題を解決することができるんだろう?」

「なぜ?」「なぜ?」と分からないから考え続けるんです。

そして答えを教えてもらえないものだから、自分なりに知っていることの中でとりあえずの決断を下していくしかなかったりするんです。

でもその決断の先でまた「なぜ?」という事態に遭遇して、また考えるんですよね。

「とりあえずこっちに進んでみたものの、違ったかもしれない。もっと良い方法はないだろうか?」などと考えて右往左往するんです。

でもそうやって「なぜ?」にこだわり続けて、答えが見つかるまで試行錯誤して、

間違ったと思えば、また軌道修正するという作業を繰り返していると、だんだん物事がよい方向に進んでいくということがわかってきたんです。

誰にとってよい方向かと言えば、もちろん「自分」にとってです。

そういえばかの有名な発明王エジソンも、幼少期「なぜなぜアル」って呼ばれていたんですってね。

でもこの「なぜ?」にこだわるっていうのは、簡単なようでいてなかなか大変なことですよ。

だって、調べればわかることであればまだしも、調べてもわからないことだとわからなければ気持ちがやきもきしたままです。

自分の力で調べるには限界があることならば、誰かの助けを借りる必要も出てくるかもしれません。

でも助けを求めた相手が自分に対して協力してくれる人とは限りません。なかにはそんな風に尋ねてくる自分を煙たく感じる人だっているでしょう。

幼少期のエジソンも「なんで?なんで?」とこだわり続けて、周りの大人もさぞ大変だったことでしょう。

そんな風に「なぜ?」に向き合い続けることはかなり大変なことなので、多くの人は諦めて、「ま、いっか。みんながやっていることと同じことをすれば」という風に主体性を放棄してしまうんですよね。

でもそのプレッシャーに負けずに「なぜ?」にこだわり続けることができれば、エジソンのように誰にもできなかった偉業を達成できるのかもしれません。

だから私は「学校」とは別に、考えるきっかけが与えられて、かつ「なぜ?」にこだわることが出来て、どの選択肢も許容されるような「場」があればいいなと思っているんですよね。

え?そんな「場」なんてない、ですって。

だったら自分で作ってみようかなと考えていたりするんですよね。

大変かもしれないけれど、自分の頭で考えて。

もしその場が出来たら、皆さんと一緒に考えてみたいですね。

どうすればみんなが幸せでいられるのかという問題について。


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