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わかりやすい説明がいいとは限らない

1.うまく教えられるようになりたいけれど・・・

誰かに何かを教えることは、自分の理解度を格段に高めるといいます。

これは実感としてもよくわかりますし、教育学者のエドガーデールという方が提唱した「学習の法則」の中でも、

情報を聞いた場合の定着率は10%、情報を読んだ場合の定着率は20%、

情報について議論した場合の定着率は70%で、誰かに教える場合の定着率は90%だという試算を出しています。

だから何かを集中的に学ぼうという時に、それを誰かに教える機会があることは自分の理解度を高めることにつながるので、

まさにWin-Winの関係、特に大人になってからの成人教育の中では大いに活用したいテクニックだと私は感じています。

ただ、どうせ教えるのであれば、相手に理解してもらいやすくなるように、わかりやすく伝えられるようにしたいと思うのは人情だと思います。

でもこのわかりやすく伝えるという技術がなかなかもって難しい。多くの人が様々な立場からわかりやすく伝えるにはどうすればいいかという方法論を、それこそ「教えている」のではないかと思います。

だからわかりやすく伝えることは目指すべき目標のように掲げられて、逆に言えばわかりやすく説明しきれないことに引け目を感じてしまう風潮があるのではないかと思います。


2.「わかりやすい」とはどういうことか

ここであえて「わかりやすく教えることは正義か」という視点で考えてみます。

世の中には説明するのが簡単なことと、説明するのが難しいことがあると思います。

説明するのが簡単なことは誰が言っても同じようにしか説明できず、かつシンプルな説明で理解できるものです。

具体的には「これは何ですか?」「これはリンゴです」のようなものです。

わかりやすく伝える能力の出番は説明するのが難しい事柄に対してです。

そうした事柄はなぜ説明するのが難しいのかと言いますと、その事柄を理解するために土台となる知識が必要であるというのがまず一つ、

もう一つはその事柄を表現するのに複数の方法が存在するということです。

こう言うと人によって捉え方が変わる抽象的な概念がイメージされやすいと思いますが、

具体的な物体に対する説明の場合も、複数の捉え方があると説明が難しくなります。

例えば、複雑な形をした芸術作品のような場合、「これは何ですか?」と尋ねられても、どう説明すれば伝わるか悩んでしまったりします。

要するに説明を理解するために使う言葉や条件が説明する人と説明される人の間で共通するものがない時に説明が難しくなるということだと思います。

ではそうした事柄をわかりやすく説明するというのは、本質的にはどういうことでしょうか。

それは補足的な説明をしなくても、誰もが共通して持っている概念に当てはめて代用することなのではないかと思います。

ここでは声を大きくとか、身振り手振りを加えるといった補足的な方法についてはとりあえず考えずにおきます。

一言で言えば、「たとえを利用する」ということになると思います。

例えば私もよく「NK細胞」という言葉を説明する時に「血液の中にいるパトロール(警官)隊」という表現をしたりします。

「NK細胞」は身体の中でがん細胞やがん細胞になりかけている細胞を見つけてはアポトーシスという細胞を自殺に導くプログラムを作動して、結果的にそれらの細胞をいなくしているのですが、

それはあたかも社会の中で犯罪者や犯罪を起こしかけている人達を見つけては逮捕したり厳重注意してそうした人達を公正させようとしている警察官達と同じような構造にあるということから、そうした説明をするわけです。

ただそれはあくまでも「たとえ」であって、全く同じものではありません。

ましてや「警官」の例ならば誰もがイメージしやすいと思いますが、あまり世間の共通認識となっていないようなことで例えると、たとえを使うことが余計にわかりにくくなる危険があります。

一方でその危険よりもマズいのは、「たとえ」のわかりやすさにかまけて、本質的には共通していない、あるいは共通性が弱いことを「たとえ」に使ってしまうことです。

これは確かにわかりやすいですが、誤解につながりやすい行為です。なまじわかりやすい分、説明された側はすっきりとするわけですが、

実際には本来の情報の本質からはずれた情報が伝わってしまっていることになるので、

この場合「わかりやすさが仇となる」状況を生み出してしまっていることになります。

具体的には「朝ご飯を食べないと力が出ない」というのは「車にガソリンを入れないと走らない」のと同じようなものだという説明がこれに当たります。

わかりやすくてそうかなと思ってしまいそうですが、実際には人間の身体は機械のように単純な構造ではありません。

このように理解してしまうと、「断食すると体調がよくなる」という実際に認められる事実が理解不能となってしまいます。これがわかりやすさの弊害のひとつです。

もう一つ、わかりやすさについて考える時に重要なことがあります。

それは「説明される側の深いところでの認識が異なるとわかりやすく説明することはできない」ということです。

共通する言葉や条件を利用して説明するのがわかりやすさの本質だというわけですが、

例えば、積極的肉食派の人がベジタリアンの人の価値観を理解することは難しいはずです。

そしてこれはいかに共通する言葉や条件を探したところで、「わかりやすく」伝えるのは難しいのではないかと思います。

なぜならば物事を見つめる視点の根底部分で認識が異なっているからです。

逆に言えば、本質を捉えてわかりやすく説明しているはずの時に、相手に思うように伝わっていかないという時は、

説明の仕方が悪いうんぬんというよりは、受け手の価値観がずれた結果だという可能性を考えてもよいのかもしれません。


3.「わかりやすさ」の罠にはまらないために

以上、わかりやすく伝えることの本質について考えてきましたが、

必ずしもわかりやすく伝えることが良い結果を生むとは限らないということがわかってもらえたでしょうか。

もちろん、だからといってわかりにくく説明してもよいという話ではありません。

わかりやすさの本質をわきまえた上で、相手の価値観に配慮しながら、

時にはわかりやすさを犠牲にしてでも本質から外れないような説明の仕方も駆使して、

届けられる情報を、届けられる相手に届けられるようにしていきたいですね。

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