見出し画像

Answer「p0」

 2023年9月29日。

「――はい。はい、それでは失礼致します」
 アパートの玄関前で通話を終え、スマートフォンをバッグに落とす。その手で鍵を取り出すと、再びコール音が鳴り響いた。
「えぇ!? 話終わったんじゃないの?」
 また仕事の電話…と慌てて鍵を差し込み、重いドアを肩で押し開けながら、スマートフォンを取り出す。
「はいはい。…はい、吉平よしひらです」
 画面も見ずに電話に出、シューズボックスの上に置かれたホタテ形の陶器に鍵を手放す。チャリン…の音とともに聞こえてくるのは、
「…はいはい。こちらも吉平、、です」
 くすくす笑う耳慣れた声。
「やだ、お母さん?」
 よそ行きの声で出ちゃったじゃない…と毒づきながら、郵便受けからはみ出す紙の塊をずるりと引き出す。
「やだ、じゃないわよ。はるか、あなたね」
「あぁごめん、ごめん。で、なに?」
 ヒールを脱ぎ捨てて部屋に入り、電気をつける。
「またそんな言い方」
「いいから。なに?」
 取材先からの直帰で、資料を詰め込んだバッグが重い。
「郵便物が溜まってるから――」
 そう言って母は送り主を読み上げ始める。
「あぁ、今見てる」
「えぇ?」
「なんでもなーい。もう、いつも中見て捨ててっていってるじゃない。どうせたいしたものないんだから」
「そういうわけにはいかないわよ。お母さん捕まっちゃう」
「見たくらいじゃ捕まらないわよ。いぃいぃ全部捨てて。じゃぁね、またね」
 とはいえ「また」があった試しはない。
「ちょっと! はるかっ」

「ふう」
 とりあえず、着替えたい。
 テーブルの上に郵便物を放り、カーテンを閉め、ルームウエアに着替えたあとはいつものルーティン。帰宅後すぐに冷蔵庫を開けてしまうのはなんの習性だろうか。
「やっぱり買い物してくるんだったなぁ」
 せっかく日が変わらないうちに帰れたというのに、庫内は部屋の中より眩しい光を跳ね返してくるだけだ。目を細め、とりあえず缶ビールを掴んだ。
「はぁ…生き返る」
 これからコンビニに行くのも面倒だ。今日はさっさと寝るか…とバスルームに向かい、蛇口を捻る。

 小さなソファの上で山になっている洗濯物を見、ソファとテーブルの間に腰を下ろした。気に入って買ったソファもすっかり物置状態だ。
 テーブルの上の封書は、水道工事のチラシ、電気料金のお知らせ、新しくできたピザ屋のメニュー、地域誌――。
「ぁ、もうそんなか」
 またこの時期が来た。アパートの更新の通知。仕事場までの便がいいとはいえ、もうずいぶんここにいる。
 引っ越しはしたいが物件を探している暇がない。
「――大学の会報誌なんて、いつまで届くのかしら」
 先ほどの母親との会話に、定期的に実家に届く出身大学の会報誌に「どうせゴミになるのに」と感心すると同時、昼に届いていたサークルのグループLINEを思い出す。
「また何かあるのかな」
 女も30歳を過ぎれば、同窓会の知らせもだんだん来なくなる。だがなぜか、サークルの会合だけはマメにやってくる。スマートフォンをスワイプすると、通知が40件。まただれか「そろそろ集まりたいね」などとつぶやき始めたのだろう。
 まぁ確かに、世間も落ち着いたのか…と、マスクいらずの現状を考えればそんな気、、、、になるのも解らないでもない。が、結局通知は見ずにスマートフォンをテーブルに伏せた。

 そもそも通知に目を通したところで会話に混ざる気は毛頭ない。ひとこと返せば無駄に続くだろうことは目に見えているし、ましてここ数年音信不通を決め込んでいるから、血迷っただれかが電話をかけてくるとも限らない。 
 代わり映えのない自分の生活を晒してまで懐かしさが勝ることはない。
 ただ、会いたい人がいないわけではなかった。出さなくなって久しい年賀状然り、社交辞令程度のLINEのやり取り然り、自分のかわいい時代を知っている仲間の中には気になる存在は多少ある。だがあくまでも、多少、、だ。
「別に。会いたいわけじゃないし」
 だれに言い訳するともなく、そんな思いをかき散らす。
 だが、この期にしれっと連絡を取るのも悪くないかもしれない。
(ひとこと返してみる?) 
 それじゃぁただのかまってちゃんだ。

 世間がコロナで騒がしくなってから、会社の人間意外と連絡を取らなくなった者は少なくないだろう。自分もそのひとり。しかもその間に携帯も買い替えているから、学生時代の友人となると連絡先を確認するには昔の手帳を見るしかない。ここ数年の手帳はテレビの下の棚の中。
 コロナ以前の手帳は――。
「箱の中」
 首をもたげて寝室を振り返る。
 文具オタクのはるかは、現在の仕事に就職が決まった際、モチベーションを保つ意味で「ほぼ日手帳」を愛用することに決めた。多少高くとも「自分の価値を下げない」つもりで、毎年9月になると翌年の手帳を買うことにしている。今年の分も先週買って来たばかりだ。
 仕事柄こだわり手帳を作ることが好きだ。そこには当然ながらプライベートの備考もある。なんだったら、手帳を見るだけで当時を振り返れるだけのワードも満載で、それらは墓場まで持って行くつもりで鍵付きの箱に入れてある。
 2度と開けるつもりのない箱。
(美咲と萌は、どうするのかな)
 久しく連絡を取っていない懐かしい顔が浮かんだ。
「来るわけないか」
 普段ならここでため息とともに諦めもするが、どういうわけか今夜のはるかは意欲的だった。その日、社内最後の同僚に「寿退社」の旨を告げられたからではない…と、心の中で言い訳しながらクローゼットの奥に手を突っ込み、厚紙でしつらえられた滑らかな手触りの箱を掴んだ。
「鍵は…っと」
 立ち上がってキッチンに向かう。
 鍵は冷凍庫の中。タッパーに水を入れてカチカチに凍らせてある。我ながら幼稚な行動だとは思うが「だって開けるつもりなかったから」との言い訳はある。
 タッパーの蓋を取り、シンクにおいて蛇口をあげた。
 パキッというなんとも言えない音に、しばらく溶けないだろうな…と眺めながら、お風呂をためていたことを思い出し「どうせなら湯船に入れてしまおう」と、水を止め冷たくなったルービックキューブ大のタッパー片手に浴室に向かった。

 ぼーっとしていると時間が経つのはあっという間だ。箱を目前になにを躊躇う必要があるのか、あとは鍵を差し込むだけ――。
 感傷に浸る前にぶちまけてしまえと、迷わず箱をひっくり返す。懐かしい絵本でも見るように「これは、いちばん高かったやつ」と、最初に目についた「こぎん刺し」の手帳に手を伸ばす。すると、中から紙ナプキンとレース状にカットされたコースターが弾かれるようにして落ちた。
「ぇ。これなん年よ?」
 見ると2016年だった。
 紙ナプキンとコースターを拾い上げ元の場所に戻す。
 そう、元の場所を知っている。忘れもしないクリスマスイブ。当時、半同棲だったタクミとケンカ別れした日だ。
 開かずの箱なのだから、開けなきゃよかったのだ。
「別に戻さなくてもいいのよ」
 ディナー早々に軽口から口論になり、とうとうグラスの水滴をしみこませることなく放置されたタクミの紙ナプキンとコースター。なんなく12月のページを開いて挟み込む。
 途端に胸をつままれたようないたたまれない気持ちが込み上げて来た。

 きっかけはふたりで行くはずのハロウィンイベント。
 抽選で当たったチケットも、サプライズで予約したホテルも、ふたりの甘い夜も、前日の「行けない」のひとことで頓挫した。
 結局、当日連絡の取れた美咲と出掛けたが、美咲ときたら慰めてくれるどころか、当時付き合い始めた彼と悪びれもなく現れたのだ。結果ホテルの宿泊も譲ることとなり、それがもとで彼女は華々しい将来を手に入れた。はるかはまんまとキューピッドの皮をかぶったピエロを演じる羽目になったのだ。そのあとトントン拍子に結婚が決まった美咲は、程なく彼の栄転で渡航、以来疎遠になっている。
 そしてこのイベント以来、なんとなくタクミともギクシャクしていたが、それを払拭するつもりで奮発したクリスマスディナーも、リベンジ予約の高級ホテルも残念な結果に終わった…という悲惨な思い出――いや、むしろ思い出として残したくもない。
(記録してるけど)

 2016年10月30日。
 そう、このイベントに拘りさえしなければ、気まずいこともなくクリスマスも穏やかに過ごせたかもしれないのだ。
(確か予約は――)
 はるかはペンを取り出し、2016年の10月1日のページを開くと、ハートマークに囲まれた「ハロウィン予約」と書かれた箇所に力強く書き込んだ。

——予約不要

 そして手帳を閉じ、箱に戻そうとしたその時、突然のインターフォンの音に心臓が跳ね上がった。





まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します