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Answer「p8」

「p7」前話



 2023年10月6日。

「仕事で地方に出なきゃならないんだ。バタバタして悪いけど、改めてお礼はするね」
 昨夜遅くにそう言って、美咲は大きなスーツケースと共にあっけなく部屋を出ていった。
 なんでも、田舎町に海外赴任で来ている家族が、仕事でご主人がいない間の日常生活に困っているらしい。しばらく生活を共にして買い物その他の手助けをするのだという。世の中にはいろんな仕事があるものだ。
「でもサークルの会合には行くからね。はるか、予定変更はなしよ!」
 しっかりとクギを刺されてしまった。
 ヒトの気も知らないで…と言いたいところだが、帰国したばかりの美咲には、仕事以外にもいろいろとやりたいことがあるはずなのだ。まずは「自分を取り戻す」ことだろうか――そんな焦りが感じられる。
 本当に焦らなきゃいけないのは自分の方かもしれないのに…はるかは複雑な思いで美咲の背中を見送った。
「気をつけてね」
 何にせよ、仕事は順調のようで安心した。

 萌ともあれ以来こまめにLINEのやり取りをしている。いつも取り留めのない話ばかりだったが、本当は「なにか別の話があるのでは?」と言葉の端々に引っかかるものを感じていた。そしてようやっと、ゆっくり話がしたいから「時間とれないかな」と言ってきたのだ。
 平日の方が都合がいいと、それなら「ランチでも」と提案した。心配事じゃないならいい…でもなんとなく、先延ばしにはできない不安に駆られた。
「ごめんね。仕事中だよね」
 息を切らして現れた萌はすっぴんで、先日会った時のような「いいお母さん」という印象はまったく感じられなかった。
「仕事してても、毎日ランチの時間はあるんだよ~」
 急かされて出てきた様子の萌に、少しでも話しやすい環境を作ってやりたかった。でも、
「なんかあった?」
 席に着くなりそう言ってしまった自分を後悔したが、言葉を選んでいる余裕はないと判断した。
「あ。なんか、ごめんねぇこんな格好で」
「そんなことはいい。萌、わたしこそごめん。ずっと連絡しなくて」
 こちらの気持ちを汲んだのか、萌は苦笑いで「連絡がきても返事はしなかったと思う」と答えた。
「そっか」
 落ち込むと抱え込む性質なのは昔と変わっていないようだ。単純に育児疲労を疑ったが、萌の性格を考えるに、子育て云々の話を子どものいないはるか自分に相談してくることはまずないだろうと解っていた。となると「返事をしない」と答えた萌の悩みは子育てがらみで、且つ深刻なのだと想像がつく。ならば、
「――家で、なんかあった?」
 子育ては大変…と、話を振るつもりが逆に、
「わたしね、コロナ化の時に妊娠して…ふたり目ができたの」
「えっ。うそ…あ、おめでとう。でもこないだはそんなこと」
 言ってなかった。いや、言えなかった?
「美咲が旦那さんと『別れた』って聞いて、なんだか言いそびれちゃって」
「あぁ、だよね。でもそんなの気にしなくても、美咲も喜んだよ」
「うん。だけど」
 ふたり目ができたからと言って、家庭が「円満」というわけではないのかもしれない。萌は無理に笑顔を作り、言葉を飲み込むようにしてグラスの水を口に運んだ。聞けば、ふたりめの妊娠は予防接種を受けるために訪れた病院で気分が悪くなり発覚したのだという。

「あの時、接種していたらと思うと今も怖い。そのあと授乳もあったからずっと先延ばしにしていたんだけれど、それが気に入らないらしくて」
「梶先輩?」
「…の、お義母様」
「あぁ」
 嫁姑問題。
「梶先輩はなんて?」
「最初の頃はいろいろと言ってくれてたんだけどね。面倒になったみたい。今は『適当に』って言うだけ」
(投げたのか)
「でもね。今、一緒に住んでるようなものだから。居場所がなくて…それに、子どものことも」
 育児疲れどころか、思うような育児ができていないのだと悟った。
 産後の「手伝い」をいいことに、なんだかんだと長居を決め込む姑は、既に言葉を話すようになった上の子を手名付け、同居を目論んでいるらしいことも要因のひとつだろう。
「先輩はなんて?」
「そのつもりはない…とは言ってるけどね。彼、押しに弱いから」
「兄弟いないんだっけ?」
「お義母さま、お義兄さんのお嫁さんとうまくいってないらしくて。兄弟で話はしてるみたいだけど、解決するつもりがあるのか」
 そのあとのことはなにを話したのか、自分がなんと言ったのか、中身のない慰めの言葉を並べていただけのようにも思う。なんて誠意のない会話だったろう。でもそれが精一杯だった。

 その日はなんだか、自分だけ「止まった時間」の中に取り残されているような気分で帰路に就いた。ひとりで帰国した美咲も、新しい命を授かった萌も、苦労ながらもなんだかんだと前に進んでいる。それに比べて自分は、何も変わらないどころか立ち止まっている…そんな気がしてならなかった。しかも、過去の自分と現実に対話している自分は、後ずさりしているようにさえ感じるのだ。
 そしてまた「こぎん刺し」の手帳を開く。
「あれ? え、なんで」
 10月の最初のページに書き込んでいた「予約不要」の文字や、過去の自分とやり取りした文章が消えている――。
 やはり夢だったんだろうか…とページを捲る。
「はぁ…⁉」

クリスマス『ベイ・ビュー』予約しちゃった

 11月7日のページだった。
 すかさずペンを取り書き殴る。

ベイ・ビューはダメ
予約取り消したほうがいい p

 少し乱暴だろうか。だが、つい先日すっぽかされたばかりなのになぜ次の予約など入れられるのか――自分の過去ながら「学習しない」と窘めてやりたい気持ちでいっぱいだった。しかも「ベイ・ビュー」だなんて冗談じゃない。
(なんで同じホテル)
 苦い過去がよみがえる。
 よくよく考えてみれば、それは当然の行動だった。過去の自分がしでかしたことなのだ。自分が過去に予約したその日に、この書き込みがされるのは当然のことで…当然ではあるが、なんとしてでも「回避したい」という気持ちがペンを走らせた。

 いつも通り、返事はすぐ返ってきた。今このタイミングで、2016年のはるかが、同時にこの手帳を開いているとも考えずらい。そのからくりは解らないままだが、時間軸にズレがあること、書いたはずの文字が消えたことを思うに、手帳の交流には「期限」のようなものがあるのかもしれないと思った。

今すごく上手くいっているし、仲いいよ
ケンカする理由がない

 過去の自分は必死だ。
 その必死さがまた痛々しい。
「わかる。わかるよ」

もしかしてそこで、わたしたち、別れちゃうの? p

 答えられるわけがなかった。
 だって、こんなにもしあわせそうに日記が綴られている。自分のことながら、まるで幼い身内を思うような気持ちで、返す言葉を探しつつページを捲った。すると、

まさかなんだけど
タクミが同じレストラン予約してくれてたんだ
はじめてだよ
断れない
断りたくないよ p

 それは11月11日のページだった。
 だが、今のはるかにそんな記憶はない。

 確かに自分が予約したのだ。そしてその週の週末に、ほぼ懇願する形で「クリスマスは必ず予定を開ける」と、そうタクミに約束させた。約束は守られたが、それも渋々だ。そんなタクミが、自分から予約を入れたというのか。信じ難いことが起こっている。
(過去が変わった?)
 それなら今の自分の立場は⁉――深呼吸してしばらく考える。
 自分の胸に手を当て、息を飲み、考えながら正直な言葉を並べた。

えー
マジか・・・・
もうこうなると運命としか p

 だが考えても、別段自分の感情に変化はない。
 先のページを捲れば結果は変わっているだろうか?
 いったん手帳を閉じ、少し折り曲げてみる。12月24日のページには紙ナプキンとコースターが挟まっているからすぐに開くはずだ。
「ほら」
 複雑な感情が支配する。
 紙ナプキンとコースターは挟まれたまま…ということは、結局その日に「別れる」ことになるのだろう。だが、過去のはるかにとってはまだ起こりえない出来事――ならば当日、ケンカさえしなければこの先の自分の記憶にもなんらかの変化が起きるのかもしれない。でも、

わたしは、行かないで欲しい
何があるか知ってるから

 はるかは慎重に言葉を選びながら手帳に書き込む。しかし、詳細を書き込もうとするとまた、インクが出なくなったように文字が書き込めない。
 もどかしい…どうすればいいのか。

ちゃんと説明したいけど、字が消えちゃうの

「ちょっと待って」
 ふと我に返る。
 過去の自分はるかにはしあわせでいて欲しい。それは間違いではない。だが、今の自分は?――果たしてタクミと一緒にいたいのだろうか。

 あれから7年経っている。
 嫌いで別れたわけではない。

 かといって今目の前に「タクミが存在する生活」が想像できるかと言われると…自分の気持ちが曖昧で返事ができない。
 もう少し「時間とき」が違っていたら、答えは違ったんだろうか。それを裏付けるように過去のはるか自分が畳みかけてくる。

とにかく
ケンカしないようにすればいいんじゃないかな
ケンカが良くないって知ってるわけだから
こうして手帳で話してることで
もしかして変えることもできるんじゃない p

 本当にそうだろうか。
 そうなったら、自分の感情もあの頃に戻るのだろうか。
 もしかしたら、今とは違う生活が、ある日突然やってくるのかもしれない?
(わたしも、前に進める…?)

そうなのかもしれない
なにか 変えられるのかも p

 半ば祈るように、はるかはそう書き込むと手帳を閉じた。




まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します