手紙

小説『オスカルな女たち』31

第 8 章 『 進 展 』・・・3


     《 過去からの手紙 》


ダイニングテーブルの上には、ずっと破られ続けていた〈離婚届〉の代わりに古ぼけた通帳が乗っている。名義は旧姓のまま『大賀つかさ』とあった。
その通帳を挟んで対峙して座るつかさとすぐ下の弟〈継(つぐ)〉。
「通帳の、最初の日付見て」
休日の朝、いつものように犬の散歩に訪れた弟を呼び止め尋ねた、質問への返事がそれだった。
(最初の日付…?)
通帳をめくり最初のページに目を落とすと、身に覚えのある数字が〈XX-06-29〉と記されており、新規の入金額は「200125円」とあった。
「ぁ…あたしの誕生日。え?」
そしてそれは、つかさが高校に入学した年の父親の葬儀の日と同じ日付であった。
「これ…」
「そう。親父の通帳に残ってた残金」
(え…?)
「どういう…」
もう一度通帳に目を落とし、その言葉の意味を模索する。
「親父の遺言だったらしい。自分の通帳の残金は、姉貴の『結婚資金の足しにしてくれ』って。ちょっとしか残ってなかったけどな。それでもコツコツ貯めてたんだと思うぜ。生きてたら、結婚するころにはもうちょっと貯まってたんだろうし」
(そんな…)
そんなサプライズがあるだろうか。
「だからオレが、母さんに言われて葬儀の日に姉貴の名前で作ったの」
「でも、お母さん…」
確か母は、父が亡くなってから体調を崩し、葬儀の日は外出もままならなかったはずだ。
「昔は銀行いかなくてもさ、行員が家に来てくれてただろ? 特にうちみたいな小さい会社には大事だよな。そういう付き合いがあるから、葬儀の日もお焼香に信金の人が来てくれてたんだよ。今じゃ考えられないけど、な」
つかさの父親は生前、小さな印刷工場を営んでいた。
「あぁ、信金の近藤さん」
「…葬儀の時、つき合いのない親戚やら遠縁の連中に引っ掻き回されて、姉貴も大変だったろ。…せっかくの誕生日に、毎年親父の葬儀のこと繰り返し思い出させるのはかわいそうだって、母さんが」
「それは…」
(そうだけど…)
「だから、旧姓のままだったのね…」
それは合点がいった。しかし、
「気づけよ…」
呆れた継の言葉に、まだ納得ができていない。通帳があったからといってどうだというのか、吾郎とは無関係ではないのか…そう言いたい気持ちを抑えて口ごもった。事実、毎年自分の誕生日の朝は必ずと言っていいほど葬儀の日のことを考えてしまう。
(でも…)
よくよく考えてみれば、今までひとりだったことはなかった。弟たちが家にいる頃は家族の誕生日には必ずバースデーケーキを作った。それは自分の誕生日も例外ではなく、なんだかんだと弟たちにいいように焚きつけられ、自分で自分のバースデーケーキを作らされて弟たちにふるまっていたのだ。結婚当初は吾郎と一緒だったし、吾郎が出て行ったあとは必ず弟たちの誰かが傍にいた。そして誰も都合がつかなかった年には犬が送られてきた。
(そういう、こ、と…?)
当然ながら今年も声を掛けられた。だが、今年はちょうど織瀬たちと一緒に過ごすことが決まっていた。
「あんたたち、わかりにくい…」
憎まれ口を叩きながらも、ちょっと涙腺を刺激されるつかさだった。
「姉貴が鈍いんだろ」
「それにしたって…」
そう。それにしたって、だ。
だったらなぜ、今頃この通帳がこんな形でつかさの前に現れたのか。しかも、この通帳は吾郎が置いて行った通帳だ。
「だって、吾郎が持ってたから」
「入金の詳細見て、気づかなかったのか?」
「まぁ、たしかに。そのあとも…」
通帳を1ページずつめくりながら、再び沸き上がる疑問を投げかける。そう、そのあと2年近くのブランクがあり、3千円、2千円、5千円…と、細かい入金が記され、時折1万円だったり、3万円だったりと不揃いではあるが毎年数回のペースで入金が続いていた。それは年を追うごと金額が大きくなり、記帳最後尾の欄は吾郎が離婚届を持ってきた日の日付になっている。そしてその最後の入金額は「2000000円」。合計金額は700万円近くになっていた。
「小さい金額はオレのアルバイトの一部と、舵(かじ)や郷(さと)がお年玉から少しずつ足していったやつ…」
そう語る継の言葉に、ついと顔を上げるつかさだが、
「舵や郷? え?」
再び視線を落とす。だから金額がまちまちだったのか、と。
「どうして…」
「だから、結婚資金だろ?」
結婚資金? なぜ自分の分だけ…と、声にならない言葉。
「え? みんなで…?」
「そういうこと」
(やだ、涙が出る…)
「で。結婚が決まった時に、吾郎さんに渡した」
「え? 吾郎に?」
「そ。でも、そん時は100万にも満たなかったけどな…。見りゃわかるだろうけど。吾郎さん、オレらの話聞いて『これからはそんな苦労はさせないからこれは使わない』って返してきた。だけど、オレらにもメンツがあるから『姉ちゃんに渡してくれ』って言ったんだけど…渡さなかったんだろ?」
「うん。知らない…」
「だからオレら、吾郎さんに通帳預けたまま。そのあとも余裕があるときは少しずつ入金してたんだ」
「なんでよ?」
「だって舵も郷もまだ学生だったし、なにがあるか解んねぇだろ? 姉貴ばっかりに負担かけられねぇと思ってたし。姉貴、意地でも吾郎さんに金出させねぇって感じだったし。案の定、郷の学費は自分の貯金使ってたじゃん。だから、」
「だって郷の学費は、半分以上あんたが手伝ってくれたし…」
「そうだけど。だからその頃のオレの入金はないよ。たま~に舵がバイト代入れてたくらい? 微々たるもんだろうけど。オレらはオレらで、それまで母親代わりしてくれてた姉貴に対して感謝の気持ちもあったし『自分の学費分くらい返そうぜ』ってことで始めたんだよ。姉貴貯金」
「そんな…」
そうまで言われてしまったら、涙を押しとどめることなどできるわけがない。
「泣くなよ…」
「あんたが泣かせたんじゃん」
「そうだけど」
「だって…。あん、たたち、こんな…こんな大金…」
吾郎からの最後の200万円は手切れ金のつもりだろうか?
「そりゃ今じゃオレらいっぱしに稼いでるし? 10年もありゃある程度の額は貯まるだろ」
「でも…!」
こんなに…?
「やだ…。もう、男前すぎる…」
「だろ? オレらそういう風に姉貴に育ててもらったんだよ。…男前に決まってんじゃん」
「…ばかぁ」
(もう…なにそれ…)
なんてあたたかい、ステキな家族なのだろう。
つかさは涙で濡れた頬を両手でぬぐい、笑顔を見せた。
(でも、だったらなぜ…?)
吾郎はなぜ今まで、一度もこの件に触れなかったのだろうか。こんな優しさがあるのなら、そんな一面をもっと早くに知ることができていたなら、もっと違った夫婦の形があったのではないだろうか。
「吾郎さんからも入ってんだろ?」
「え? うん。…知ってるんだ?」
(やっぱり、手切れ金…?)
「吾郎さん気を使ったんだ。…オレらがちまちま入金してるの知ってて、ずっとほっといてくれたんだよ。男としてあんまりいい気分じゃなかったと思うよ? 皮肉にも取れるしな。でも姉貴の苦労を知ってたから、オレらのこと尊重してずっと持っててくれたんだよ」
「そう、なんだ…」
「たと思う。…だから、その最後の入金は〈慰謝料〉っていうより、夫としての最低限の意地だと思うぜ」
夫としての意地・・・・。
そうなのだろうか、そう受け取っていいのだろうか。そんな意地があるのなら、そんな意地を張るくらいなら、夫婦としてのコミュニケーションを図ることができたのではないだろうか。
(男って、ホント解りにくい…)
「そういうことなら…。吾郎に問いただすことも、しなくていいのね」
「引っ越しには充分だろ」
「…うん。充分すぎるよ。でも、やっぱり全部はもらえないよ」
「そういうこと言うなよ。オレらの気持ちなんだから、黙って受け取るの!」
「え…あ、そっか。うん…ありがと」
いつか玲(あきら)が言っていた〈プレ子育て〉という言葉を思い出す。子どもがいないつかさではあったが、充分母親の気分を味わうことが出来ているのではないだろうかと。
「こちらこそ、ありがとうだ。それは、オレらのセリフなんだぜ」
「あたしだって、いろいろあんたたちからしてもらってるのに…」
(犬…とか…)
「そんなの、育ててもらった恩に換算したら微々たるもんだっての」
そんな風に大事にされていたのかと思うと、また目頭が熱くなる。
(あたしには、こんなにもたのもしいナイトがいるんだね…)
「郷なんか、姉貴がいつまでも子ども作らないのは、自分が自立できてないからだって気に病んでたんだぜ。…ま、夫婦の事情は知らねーけど」
継は語尾を荒く、意味深な視線を送ってる。
「そうなの? あの子無口だから、嫌われてるのかと思ってた…」
「そんなの、当たり前の反抗期だろ? 末っ子ちゃんには、充分かぁちゃんだったんだよ。姉貴は」
「そう、なんだ…。やだ、もう」
「なんだよ、涙もろくなったな」
「もともと繊細なの、あたしは」
ずっと怪しんでいた通帳の正体がこれだった。それはこの上なく貴重で、たとえようもないほどすばらしい贈り物。まるで過去からの手紙を開いた時のような、懐かしい風に包まれたような思いがつかさの心を満たした。

薬膳プレート2

「そっかぁ…。そういうわけだったのねぇ…通帳の大金は」
薬膳料理店でおかゆを少しずつすすりながら、しみじみと答える織瀬(おりせ)。いつも通り微笑んで普通にしてはいるが、どことなく覇気がない。
「そういうわけでした。なかなか泣ける話でしょ?」
だからと言ってやたらと「大丈夫なのか」とも聞けないつかさ。取り留めもない話をしたあと、謎だった通帳の真相を話して聞かせた。
「うん。みんなあったかいね…いい子に育ったじゃん」
病院に担ぎ込まれた翌日から「仕事に出ている」という織瀬を心配し「体調に問題がないようなら食事でもどうか」と誘い仕事帰りに店に寄ってもらったのだった。
「うん」
弟たちを褒められるのは素直に嬉しい。自然に表情が柔らかくなるつかさだが、本音は本題を切り出せない焦りが顔に出てしまうのを堪えていた。
「…だからね、生き金にしようと思って」
織瀬の食のペースを窺いながら、つかさはゆっくりと話を進める。
「生き金?」
「有り難く有効活用するの」
「へぇ…いいんじゃない?」
「思い切ってお店出しちゃおうかと思ってる」
「お店出すの?」
「うん」
「へぇ…素敵!」
「不安だけどね。…玲が、鵡河(むこう)町にいい物件があるって抑えてくれてて。住居とお店と同じマンションでできるように改装してくれるっていうから…ちょっと揺れてた」
「玲。すごいじゃん…さすがというべき?」
「ね? びっくりよね」
「楽しみだね」
「うん。…引っ越し、手伝ってもらうんだから、たくさん食べて、体力つけてよ」
明らかに食の進んでいない織瀬をあおるように、まだ準備段階である話題を持ち出し無理矢理話をつなげた。
「うん。そうだね」
「どんどん食べて」
(絶対、心ここにあらず…)
つかさはそう確信していた。

画像2

あの日は日曜日だった…。台風が接近していて、日中は日差しが強かったのに対し日暮れとともに妙に生暖かい風が吹いていた。
19時近くだっただろうか、辺りは随分と暗くなっていたように思う。お店のお客さんにしては変な時間のコールに、厄介な相手かと思い自分で受話器を取ったことを覚えている。
《つかささん。オレです、真田です》
〈あら、章悟くん。どした?〉
厄介な相手ではなかったが、珍しい電話だったことは確かだった。
《今、織瀬さんと一緒なんですが…》
〈おりちゃん? なんで…? もしもし…章悟くん?〉
真田からの電話を受け、急いで大学病院の救急に電話を入れた。
〈たった今、体調の悪い30代の女性が車でそちらに向かっているのですが、内科の先生はいらっしゃいますでしょうか…?〉
意外に冷静に対応できた自分にも驚いた。奇しくも当直の担当医は外科の医師らしかったが、幸い女医だったので詳しい話もせずにスムーズに受け入れてもらえた。
仕事を片付け病院へ向かう道すがら、つかさはふたりの行動を疑った。
偶然居合わせたのだろうか…?
なぜ、一緒にいたのだろう…?
仕事帰りなのだろうか…?

様々な疑問が頭の中を賑わせていたが、いつもと違う真田の蒼白した表情を捉えた瞬間、そんな思いはすべて吹き飛んだ。
〈章悟くん…!〉
つかさが救急外来に着いた時、真田はひとり診察室の外にたたずんでいた。肩を落とした力ない影は、まるで恋人の安否を気遣う姿そのものにつかさの目には映ったのだ。織瀬に思いを寄せているのだから当然と言えば当然の姿ではあったが、目に飛び込んできた瞬間ドキリとさせられたことは言うまでもない。
〈つかささん…〉
〈おりちゃんは?〉
〈今、処置室で…〉
織瀬は既に血液検査を済ませ、検査結果が出るまでの間診察室奥の処置室で「胃カメラ検査」をしているのだということだった。
〈胃カメラ?〉
〈はい…〉
運良く、休日の救急外来に他の患者の姿はなく当然ながらシン…としていて、処置室から苦しそうな織瀬の嗚咽が漏れ聞こえてきた。いたたまれないつかさは、どうにか気を紛らわそうと会話を続けた。
〈胃が痛いって…?〉
最近の織瀬の様子から、胃というよりは生理痛に苦しんでいた…というバーでの話を思い出し、なにか深刻な病気ではないかと疑った。
〈最初はそんな感じじゃなかったんですが、帰り際急に痛み出したようで動けなくなってしまって…〉
そう語る真田は、実に申し訳なさそうな顔をしていた。それゆえ「なにがあったのか」とそれまでの経緯を問いただせる様子ではなかった。
(動けなくなるほど…?)
〈急に…?〉
〈はい…。先生は胃痙攣じゃないかって言ってましたが…〉
〈いけいれん?〉
〈はい〉
〈そう…入院とかにならなきゃいいけど…〉
〈入院…! そうですね〉
力なく壁にもたれかかる真田。
〈でも、いてくれてよかったよ。おりちゃんひとりじゃどうなってたか…〉
状況はどうあれ、ひとりじゃなくてよかった。
〈そう、ですね…〉
〈もう、章悟くんがそんなんでどうすんのよ〉
言いながら軽く腕をこついた。
〈最近、調子よくなかったんですか? 仕事も休んだらしくて〉
〈え…。あぁ、そこまでじゃなかったと思うけど…〉
まさか生理痛が酷い…とは言えない。
よく見ると真田のジーンズの腰のあたりから不似合いなハイヒールが伸びている。どうやらベルト部分に織瀬の履いていたハイヒールを引っかけているようだった。その様子からつかさは、真田が織瀬をここまで抱えて来たのだろうと推測できた。
〈それ…〉
〈あ…織瀬さんの…〉
そう言ってヒールを差し出す真田に、
〈ありがと。でも、真田くんはもう帰って〉
連れてきてもらって悪いけど…と、厳しい表情で告げた。
〈でも…〉
〈うん。心配なのは解るけど、旦那さまにも連絡しないと…〉
言われて真田は口をつぐんだ。
〈ごめんね〉
きついようだが、状況を把握できていない状態で、どう説明すればいいのか思考が追いつかなかった。
〈これから仕事じゃないの?〉
言い終えて初めて、真田が私服であることに気づいた。
〈いえ、今日は休みだってんで…〉
(仕事じゃ、なかった…?)
それではやはり、ふたりはプライベートで会っていたということか。
〈あとで必ず連絡入れるから…〉
〈…解りました〉
憔悴しきった様子できびすを返す真田の背中に、
〈それと。…解ってると思うけど、一緒にいたことは伏せといて。もともと口外するつもりもなかっただろうけど〉
と付け加えた。
真田はただ黙って受け入れ、深々と頭を下げて去って行った。
ほどなくして診察室に呼ばれると、カーテンの向こうに力なく横たわり点滴を受ける織瀬の姿があった。
(顔、真っ白…)
一瞬たじろぐが、すぐに気を取り直し声を掛ける。
〈大丈夫?〉
〈つかさ…。ごめん、ね〉
〈いいよ、大丈夫。平気?〉
〈…うん。なんだか悪いことしちゃった〉
〈大丈夫よ。真田くんには帰ってもらったよ〉
〈うん…〉
〈旦那さんに連絡は…?〉
そういうと織瀬は、一瞬ハっとしたような顔をして「今日は出張で帰りが解らない…」とだけ答えた・・・・。

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「さて、どうする?」
食事を終え、つかさは一つの提案をしていた。
「そうね…」
「行ってみる?」
結局あの夜は織瀬の夫〈幸(ゆき)〉とは連絡がつかず、帰ってくる様子もなかったので、織瀬をひとりにできないと思ったつかさはそのまま織瀬のマンションに泊まったのだった。
(結局、なにも聞けないまま…)
普段滅多に家を空けない幸の不在もそうだったが、そんな日になぜ真田と一緒だったのか…今また、いつかのように織瀬とふたり『kyss(シュス)』に向かって歩いている。
「無理しなくてもいいよ」
「でもこのままってわけにもいかないし…」
「そうだねぇ、一応お礼くらいしとかないとねぇ…」
自分で提案しておきながら本当は「連れて行きたくない」と思うつかさだった。そして織瀬に至っては「行きたくない」と言われると思っていたのだ。だが、どちらにしてもそれは「大人の行動」ではない。体調の悪い自分を病院に運んでもらっておきながらそれっきりというわけにはいかないだろうし、礼も言わずにしれっと客の顔をして店を訪れるのもおかしなものだ。
(あたし、意地悪かな…?)
自問しながらもつかさは、織瀬とふたりで『kyss』に行くのは「旅行に行こう」と言い出した真田を問いただしに行ったあの日以来か…と考えていた。その際「ちゃんと考えた方がいい」と織瀬に言った自分の言葉を今さらながらに後悔しているつかさ。あの言葉を受けての、先日の行動だったのではないか、と。
「こんばんは…。今日は、おふたりですか?」
病院で別れた時のような必死の表情で出迎えられるかと思いきや、意外にも冷静な真田の様子に拍子抜けしたつかさだった。
(まぁ…そう、よね)
「今日は飲みに来たわけじゃないの…」
そう言ってカウンター席にクラッチバッグをかけるつかさ。
「なんだか、前にもこんなことありましたね…」
真田は小さく笑ってカウンターにコースターを差し出した。
「先日はご迷惑をおかけしてしまって…」
荷物も下ろさずに織瀬が早口にそういうと、真田はこちらを見ることもせず、
「いえ。お加減はもうよろしいのですか?」
とだけ告げた。
「え、ぇ…。本当に、すみませんでした」
怪訝な顔で席に着くつかさは、なんだかふたりのやり取りはとてもよそよそしく他人行儀だと思った。あの夜遅くに、織瀬の「検査結果」を電話で知らせておいたとは言え、それにしては真田も随分とあっさりとした対応ではなかろうか。それともふたりはいつもこんな感じだったのだろうか…と思い直す。
既に連絡を取り合う仲。
(まさか…ね)
だが。
あの日のふたりのただならぬ雰囲気は、勘違いだったのだろうか。
「つかささんは…ペリエでよろしいですか?」
それにしてもいつも以上に淡々とした真田の接客に、つかさは違和感を覚えながら、
「えぇ…」
生返事をし、
「あ、おりちゃんは…」
静かに席に着く織瀬を伺うと、
「ホットウーロンにでもしましょうか?」
と、相変わらず織瀬を気遣う真田の言葉。
(気のせい…?)
だが「なにか」が違う。「これ」とは言えないなにかが違うのだ。
「ありがとうございます。少し、ぬるめにお願いします」
力なく答える織瀬もまた、別段おかしなところはないのに、小首をかしげたくなるようなもやもやが漂う。
(なんだろ、これ…?)
「胃潰瘍だって聞きました。ちゃんと食べてますか?」
「えぇ。あの日以来、痛みはないので。…食べてます」
「お大事になさってください」
「お気遣い、ありがとうございます」
淡々と、かわされる言葉がさみしい。つかさがそう感じるくらいなのだから、織瀬本人とてなにか感じているはずだ。それとも「あえて」なのだろうか。
そんなふたりのやり取りを眺めながらつかさは、あの日夜遅くに真田に連絡した時のことを思い返していた。
〈遅くなってごめんね…今、帰ってきた〉
《織瀬さんは…》
間髪入れない真田は、おそらく携帯電話を握りしめ待ち焦がれていたのだろう。
〈うん。今、おりちゃんのマンション。旦那様と連絡がつかなくて…放っておけないから〉
泊まることにした…とまでは言う必要はないだろうかと、中途半端に言葉を飲み込んだつかさ。自分はいったい誰に気を使っているのか。連絡がつかない夫のことをどう思っているのか、それとも無理に連絡を取りたくないのか、体調の悪い織瀬に聞くこともしなかった。
《そうですか…。落ち着きましたか?》
〈うん。点滴でだいぶ痛みも治まったみたい。やっぱり胃痙攣だったみたいだけど、胃潰瘍になりかけてるって言われた〉
《胃潰瘍?》
〈仕事が大変なのか、な…。他に悩みを抱えてるのか…とにかく、大事には至らず帰ってこれたわ。…心配かけたわね〉
《いえ。落ち着いたのなら…よかったです》
どうして一緒にいたの…とは、聞いてはいけない気がした。
《連絡、ありがとうございました》
〈うん。折を見てお店にも顔を出すわ。ふたりで〉
《…あ。はい。お待ちしてます…》

月

心なしか、歓迎されていないような気がした。勘ぐりすぎだろうか。
(あたしが気にすることでもないのか…)
カウンターを挟んだふたりの姿を眺めながら、口数も少なく、出してもらった一杯だけでふたりは店を後にした。
帰り道、それとなく織瀬に聞いてみようとつかさは言葉を探していた。だがそれは、織瀬も同じようだった。
「ごめんね、つかさ。つかさにこそお礼しなきゃ…」
タクシー乗り場に向かいながら、ポツリと織瀬が言った。
「あぁそんなこと。気にしなくていいのよ」
どう切り出そうかと考える。
「…彼。あきらめるって」
静かに織瀬が切り出す。
「え?」
「あの日、彼と会ってた日にね。『あきらめる』って言われたの」
「あきらめる、って、おりちゃんのこと?」
織瀬が、コクリと頷く。
「へぇ…」
そんな話をしていたのか…と、つかさを沈黙させた。
「ま、当然っちゃ当然? こっちは既婚者だしね。あきらめないって言われてもね…困る、だけよね?」
(困ってる、のよね?)
「なんか、振られた気分…」
「振られたのは、向こうでしょ?」
「そう、なのかな?」
「そうよ」
そう言いながら、つかさもその答えに納得しているわけではない。
(これで、ふたりは終わり…ってこと?)
そんなに簡単じゃないことはつかさも承知していた。

つき

Prr…Prr…
「もしもし…つかさです」
『・・・・・・』
「こないだはごめんなさい。バタバタしちゃって…」
織瀬と真田のふたりに触発されたわけでもないが、会おうと思うとなかなか会えないものだなと、圭慈に電話を掛けながら思うつかさだった。




まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します