小説『オスカルな女たち』24
第 6 章 『 啓 示 』・・・4
《 悩める子羊 》
「できる女といえば…やっぱり、自分だけが際立たないってところよね。周りも盛り立てて且つ、功績を認められる技量が備わってるってことじゃないかしら…?」
神妙な面持ちでビールジョッキを握ったままの真実(まこと)の顔を覗き込む玲(あきら)。久しぶりの4人の女子会はそんな重苦しい空気で始まった。
「え? なになに? 今日はなにがテーマなわけ?」
いつものバー『kyss(シュス)』で、あとから合流した織瀬(おりせ)とつかさがテーブルに着いた時のことだ。
「なんかね『できる女、必要とされる女』特集の取材ですって」
それを知らせる通知…と目線を下に流し、苦虫を潰したような表情の真実の代わりに玲が答えた。
「なに~? どこの取材? 特集って雑誌かなにかなわけ?」
先に手渡されたおしぼりを受け取りながら、丸テーブルをいつものように囲み、折り目のついた用紙に手を伸ばしてつかさが続く。
「ほら『open』っていう隔月の女性雑誌知っているかしら。女の開放をコンセプトとして〈自由な時間〉〈自由な関係〉〈自由なお金〉を手に入れるためのバイブルっていう…」
「知ってる、知ってる」
「あぁ、毎回女優や女流作家とかが表紙になってる? ファッション誌ってわけじゃないけど地味に人気な雑誌よね…?」
流暢に受け応えるつかさは、実は定期購読者だったりする。
「それよ。その雑誌の特集記事のインタビューですって」
言いながら真実をチラ見する。
「インタビュー? へぇ~すごいじゃん」
答えながらカウンターに向かって手を挙げ、店員を呼ぶ織瀬。
「なんて? できる女? 必要とされる女? それがまこちゃんなの?」
つかさは手に取った用紙を1枚、2枚とめくり、なにやら細かく書かれたスケジュールに目を通しながら、未だ憮然とした態度の真実を見て言った。
「すごい、本格的だね。でもさ、『できる女』と『必要とされる女』って、ひとくくりなの? それとも別々に対象者がいるの?」
つかさかから手紙を受け取り織瀬が問う。
「そうだよね。『できる』から必要とされるのか『必要』とされるためにできるようになるのか…とも、解釈できるけど、」
と続くつかさ。
「知らないよ、そんなの~」
大きなため息とともにテーブルに突っ伏する真実。ますます機嫌を損ねそうだとつかさは、
「店員、遅いね。そんなに混んでもいないのに…」
と、取り繕うようにあたりを見回した。
「ここも人手不足?」
いつもならすぐにも脇に跪いてくれる店員が、今日に限って注文を取りに来ない。心なしかいつもひとりかふたりはホールで姿を見るはずの店員の姿も見えない。
「そう言えば、少ないね…」
そう言って見回す織瀬の言葉を受け、
「あぁ今日は、真田くんもいないの?」
カウンターからこっち、織瀬に目を戻すつかさ。
「なんでこっち見るのよ、知らないわよ…。本業で出てるんじゃないの?」
知らない…としながらも、真田が代表を務めるケータリングサービスと提携している会社に属する織瀬にはそれといった答えをすぐに導き出せた。
「アハハ、条件反射~」
「シャレにならないよ」
当事者の真実を横目に〈自由な〉会話が交わされていく。
「それでなんでぶーたれてんの? 真実は」
「あ~あ~めんどくせぇ…! ビール!!」
突如大声を張り上げ、ジョッキをカウンターに向かって掲げる真実。
「っ、ちょっと…まこちゃん…」
制しながらも笑いをこらえるつかさに、
「うわ~そうなるよねぇ。こういうの嫌いだもんね」
そう理解していても内心では楽しんでいる様子を隠せない織瀬。だがふたり、キッっと真実の刺すような目線に肩をすくめる。
「なんでそうなった?」
聞いてしまってから地雷を踏んだことに気づいても遅いが、つかさの視線の先には真実の更に厳しい目が光っていた。
「あ、まずかった…?」
そんな様子を見て、ふふ…と笑みを浮かべ「そういうわけじゃないけど…」と小声で玲が続いた。
「弥生すみれよ」
「弥生すみれ?」
真実の「ビール!」に続き、再び店内に甲高い織瀬とつかさの二重音声が響いたことは言うまでもない。
「あ…っと」
口元を押さえつつ、顔を見合わせる織瀬とつかさ。それに合わせて真実の顔つきがみるみる赤く変わっていくのに、相当の怒りをひしひしと感じる。
「なんで弥生すみれ?」
なんとなく口パクで問うつかさ。
「先日、あちらの会合に出席したじゃない?」
「あぁ、本家の女子会ってやつ?」
言いにくい言葉をあえて選ぶつかさ。
「…まぁ。その時帰りがけに聞かれたのよね『真実さんは家業を継がれたのよね?』って。それが、これに繋がるのじゃないかしら?」
「だったら如月さんだって女医じゃない。なにが違うの?」
真実の反応を見ながら遠慮がちに問う織瀬。
「そうね、すじとしては、まこちゃんよりそっちが先よね、同じ取り巻き仲間なわけだし…? 断られた…とか…?」
「女医がメインじゃなく〈経営者〉ってところがポイントみたいよ」
「でも、だったら彼女だって経営者…よねぇ? 一応、跡取りなわけだし…?」
確認するように真実を見遣るつかさ。
「そこもね〈個人で頑張ってる女性〉…っていうのがターゲットらしいのよ。しかも…母子家庭だし…?」
ちらりと真実に目を移す。
「こじつけだよ…!」
「それ関係あるの?」
母子家庭が…と言葉を続けようとしたつかさだが、
「気に入らない…!」
バンっと、テーブルに拳を打ち付ける真実に遮られた。
「す、すみません。ご注文伺います…」
タイミングよくやってきた店員が委縮して跪く。
「あぁ、違うのよ。えっと、ビールのおかわりとグラスワイン…織瀬は?」
「あ~どうしよっかな…」
考えてなかった…と、いつもは考える必要のない質問に躊躇する。
「真田くんに任せたら? 今ご出勤みたいよ」
カウンターを顎で指すつかさ。
「え、いいよ。えっと、…ジンフィズで」
「かしこまりました」
そう言って店員が立ち去ったあと、
「そういうこと普通に言わないでよ、誤解されるじゃない…」
と、つかさを制する織瀬。
「ごめん、つい…」
いたずらに舌を出して、眉根をあげるつかさ。
「それよりまこちゃん、弥生すみれ、嫌いだった?」
誤魔化すように小声で玲に問う。
「どうだったかしらね?」
「喋ったことすらないよ」
と、答える真実に、
「まぁまぁ、今日は私の奢りだから…」
なにかある…と内心で気づいていながらもそれをそれと追及しない玲。
「当然だね」
取材のことは成り行きとはいえ、少なからず自分のせいだと思っている玲は、真実の態度が自分に向けられていると自覚した上での配慮だった。
「なんだか最近、そういうパターン多くない?」
手持ち無沙汰につかさが〈ナッツ〉の入った容器に手を伸ばしながら「割り勘でいいよ」と言う。
「まぁま、今夜はマコを『応援する会』なわけだから」
応援という言葉で場を濁し、自分だけ納得しているといった風の玲。しかしどう取り成そうとも未だ真実は憮然とした態度のままだ。
「大丈夫? まこちゃん」
「ぜんぜん…」
そう言って豪快にジョッキを傾けていく。
「みたい…ねぇ」
肩をすくめるつかさ。
「弥生すみれの紹介ってこと?」
手紙をつまみ上げ、まじまじとその内容を目で追っていく織瀬が、ことの流れの説明を求めて玲を見た。
「そういうことなんでしょうね。ほら、大きい病院だと『さもあらん』って感じになるけど、個人病院だと読者受けもいいってことなんじゃないかしら」
「それで取材されちゃうんだ。…いつ?」
運ばれてきたグラスを受け取りながら織瀬が問う。
「追って沙汰が出る」
たった今来たばかりのビールを力強く受け取り、グイっと半分飲み干し、
「乞うご期待」
と、織瀬を見て真実は溜め息をついた。
「や~だ、なにそれ」
おそらくこの所業は『弥生すみれ』としての真実に対する「謝礼」のつもりなのだと解釈する。それもそれでいい迷惑なのだが、そこに至る経緯を話せない以上、今は観念して現状を受け入れるしかないのだ。
「断れないってことなのね…」
仰々しい言い回しをする真実に気の毒そうに答えるつかさだが、
「ま、でも『できる女』には違いないわけだから、まこちゃんの仕事ぶりそのものを語ればいいんじゃないの?」
それほど心配することじゃない…とワイングラスを「乾杯!」と掲げた。
「簡単に言ってくれるよ、まったく」
真実にはほかに、表立って目立ちたくない事情もある。思春期の娘のことはもちろん、未だ真実に未練を持つ元夫〈佑介〉が、これを理由にかこつけまたいらぬ出没をするようになるのではないか、という懸念だ。
「できる女なんか、他にいくらでもいるだろうに…」
そう言ってまた深く溜息をつく。
「あは~、まこちゃん、だいぶきてるねぇ…」
「でも、精力的に仕事をこなす女は甘えるのが下手ね」
そう言って「それはつかさにも当てはまるんじゃない?」と、玲が言う。
「なにが?」
「家庭より仕事って感じ? 一家の柱として男性顔負けに仕切って働いているから、他のことも無意識に対等であろうとしているのじゃないかしら?」
「そういうこと?」
「例えば食事に出掛けて、私は自分の財布を開いたことはないけれど、織瀬やつかさは相手を気遣って半分でも出そうとするじゃない? さっきみたいに。でも、カッコつけたい男にとってそれは野暮というものじゃないかしら。にっこり笑って『ごちそうさま』って言っていればいい時だってあるってことよ」
言い終えてビールを口にする。
「そうかぁ? 今どきの男はみんな割り勘じゃねーの?」
玲と一緒にするなよ…と真実が顔を持ち上げた。
「そう思っていても、そう思わせないように甘えるのがかわいい女なんじゃないの」
「あぁ、そういう…?」
しみじみと頷いて見せる織瀬。
「ほら、織瀬には解っているじゃない」
「ちょっと待て。玲、矛盾してないか?」
「なにがよ?」
「いっつも『こんなところで私に財布を開かせる気?』って、旦那に言ってるじゃんかよ。…てか、そもそもが現金持ち歩かねーじゃんよ」
玲の口真似をして見せる真実。
「なによそれ、失礼ね」
「間違っちゃいない」
「それは…私だから。私と主人の間では、それが充分『甘え』になっているのよ」
全然矛盾じゃないじゃない…と否定する。
「偉そうにしてるだけだろーが」
「いやね、そうされることが悦びだっていう人だっているでしょう」
「そこだよ! 玲の旦那はマゾか…? 下僕か?」
いつもの調子が戻ってきたらしい真実はポンポンと言葉を返してくる。
「ま…! うちの主人はヘラクレスなのよ…!」
「へらくれす~? なんだよ、それ…裸に布巻いてる男じゃん」
どっから出てきた…とほかのふたりと顔を見合わせ嘲笑する。
裸に布…そう言われてあながち間違いではないと苦笑いの玲。
「叩かれて伸びるタイプなのよ」
叩かれて、伸びる…言ってしまって心なしか言葉を間違えたのかと、顔をしかめる玲。
「ヘラクレスってそういうやつだったか?」
いつものふたりのやり取りを微笑んでみている織瀬とつかさをに、意見を求める。
「確か、義理堅く、友人思いで、優しい…」
先んじてイメージを植え付けようとする玲だが、
「ヘラクレスは…乱暴で、狂暴で、傲慢…現実にいたら、お友達にはなりたくないタイプみたいよ?」
素早くスマートフォンを滑らせる織瀬が、くすくす笑いながら答えた。
「そうだったかも…?」
と、続くつかさ。
「ほらほらほら~」
得意気に指さす真実に、
「いいじゃない。どうだって」
と、ぐうの音も出ない玲に3人は笑った。
「イメージも人それぞれだと思うわ」
「都合いいな。さすがお嬢~」
「関係ないじゃない、境遇は」
そんな中、
「あたしは…『必要とされる女』になりたいな…」
ふと、思い出したように本音を吐露する織瀬に、3人の笑みが消えた。
「必要とされてないわけじゃないでしょ…」
つかさは優しく肩を抱き寄せた。そうされながら織瀬は、頭の中では夫である幸(ゆき)のことを考えながら、無意識に視界の端に真田の姿を捉えていた。
「実際『必要とされる女』って、どんなのを言うのかな」
つかさにうなだれながら織瀬が疑問を投げかける。
「そうねぇ…ひとことで『必要とされる』って言ってもねぇ、どんな場面でのことを言っているのかしらね」
つい最近離婚が成立した自身も、そういう意味では決してそちら側の女ではなかったかもしれない…と、腕を解いてつかさが言う。
「マコの取材の件に関していえば、きっと〈仕事〉に対してのことなのだろうけど。織瀬やつかさが言うのは、女としてってことでしょ?」
「うん」
「難しいわね」
「誰しも、いろんな場面で『必要とされている』んだろうけど…」
言いながらも答えが見つからないといった様子のつかさ。
「あたしらには、必要だよ。織瀬もつかさも!」
今いちばん欲しい言葉を、真実が言ったような気がした。
「珍しいわね、あなたがここにくるなんて」
「そう、かな…。まぁそうね」
数日後玲の店を訪れたのは、仕事を抜け出してきたというつかさだった。
「ちょうどいい時に来たわ。今うるさいのが帰ったところよ」
応接テーブルの上のグラスを片付けている綾香の方を見ながら玲が答える。
「うるさいの…?」
さっきすれ違った営業マンのこと?…と苦笑いする。
「週3の割合でくるんです。玲さんのファン」
言いながら給湯室に入っていく。
「ファン?」
「自称、ね」
すぐさま付け加える玲は、本当に迷惑そうな顔をして見せた。
「あぁ、例の…ね…」
少なからず秋山の話を聞かされているつかさは、つい先ほどすれ違った男がその人なのだと連想させることができる。
「忙しくなかった?」
デスクに向かっていた玲を気遣う。
「ぜーんぜん。ここは駅からも離れているし、人が来ないから私がいるのよ」
上品に微笑む玲にとって「それほど仕事熱心ではない」というアピールであったが、つかさにしてみれば「玲目当て」の客のためだと言っているようにも解釈できた。当然ながら本人にまったくその気がないことは承知しているが、果たして会社を経営する玲の亭主にとってはそうだろうか。少なからず「玲目当て」の「ファン」を取り込もうとする戦略かもしれないと伺える。玲に「うるさい」と言わせる営業マンとて例外ではない。
「座って…」
ソファに促す玲のあと、
「オスカルさん、ですよね?」
いそいそと冷たいドリンクを運んでくる綾香。
「え?」
突然の問いかけに顔を上げるつかさ。
「あやかちゃん…!」
慌てて玲が制する。
「すみません…っ。でも、わたし、会いたかったんです!『オスカル』さんってよばれている玲さんのご友人に…」
たしなめられても好奇心を隠さない、そこら辺が今どき女子だろうか。
「もう。無邪気ね…」
気を悪くしないで…と、小さく溜息をつき自分のデスクに手を伸ばした。
「綾香ちゃん、悪いけどちょっと外してくれる?」
「あ~いいのに…」
そういうつかさに軽くウィンクし、
「お願い。ちょっと重要な案件だから…」
と、いかにもな言い回しをして引き出しに手を伸ばす。玲が一番下の引き出しの中からうやうやしく分厚いファイルを取り出す様子に、
「…は~い。それじゃぁ、ついでに銀行に行ってきます」
不本意ながら…といった様子の綾香だったが、上司の口調からわがままが通る雰囲気ではないと察し素直に従った。
「ごゆっくり」
恭しくお辞儀をし、だが後ろ髪ひかれていることは隠しようもないのだろう。しぶしぶと綾香が外出したのち、
「ごめんなさいね、つかさ…」
「べつによかったのに…」
恐縮するつかさ。
「私が落ち着かないのよ…。あの子、高校時代の私たちの話に夢中で」
と、面倒くさそうに言って小さく溜息をついた。
「あ~。そういうことなら…」
そう言って冷えたウーロン茶の入ったグラスに手を伸ばす。
「それで…? 今日はどういった風の吹き回し? また弟さんの引っ越し…ってわけでも、なさそうね」
仕事のついでに寄った…わけではないことを悟った玲は、取り出したファイルがまんざら無駄でないことをつかさの態度からくみ取った。
「う、ん…。そうともいうし…それだけじゃない、かな。実は…あたしが引っ越そうかと思って」
「つかさが?」
「うん、そう」
「あの家売るの?」
育った環境より、苦い思い出に区切りをつけることを優先しようとしているのか…と玲は思ったのだ。
「そうじゃないの。あの家は、継(つぐ)たちに譲ろうと思って…」
そう答えるつかさがさみしげに見えるのは気のせいではないだろう。
「譲る? あなたが家を出るの? わざわざアパートを借りて…?」
またなんで…と言いかけて言葉を飲み込んだ。
「そのつもり…。どうやら3人目ができるらしくてね」
「あら、おめでたい。…でもだからって、あなたがお金をかけてまで出ることないんじゃないの?」
「でも、独り身のあたしより物入りでしょ? 家族が増えるわけだし」
「それはそうだけど」
話はすぐには済まないだろうと玲は、立ち上がり給湯室から水菓子を持って戻ってきた。
「いただき物だけど、どうぞ」
「ありがと」
「確かに。ひとりで住むには大きいかもしれないけれど…つかさ、後悔しないの? だって、ご両親の家でしょ?」
「そうだけど。もともとあたしの結婚がなければ、継があそこに残っただろうし。それに…この先のことを考えて、店舗と自宅は近い方がいいかなって思って…いろいろ、風向きも変わったことだし…?」
離婚も成立し、心機一転して仕事に打ち込むには多少の犠牲も覚悟しているのだと話すつかさ。
「あぁ、そういうこと。仕事に専念するってことなのね。へぇ…」
少し考え、
「今のお店の近くに住むってことよね?」
と、それほど立地条件の良くない店舗を指して言った。
「そう、なるかな…?」
「あの辺、あまりいい物件ないわよ」
「そう…」
具体的な案があるわけでなく、勢いで来てしまったつかさはそれ以上言葉が見つからずに口ごもった。
「それなら…いっそのこと店舗も移転したら?」
「えっ? 無理だよ。そんなお金なんかないもの」
突然の提案に慌てるつかさ。だが、
「もっとお客がつけばいい話でしょう?」
いともあっさりと玲は返す。
「そりゃそうだけど、そんなに簡単じゃないよ」
「それは解ってるけれど…。モノは、考えようよ」
自宅と店舗の距離が縮まればその分の交通費も浮くはずだろうし、仕事も今よりやり易くなるはずだ。当然それを踏まえて引っ越しを考えているのだろうと進言する玲。
「それはそうだけど…」
参ったな…と、自分がノープランで来たことに苦笑いのつかさ。
「今の店、貸店舗よね? 家賃いくらよ?」
目を細めて見せる。
「えー。そりゃ駅からそう遠くもないから、それなりに…?」
「駅は近い方がいいのかしら? でもわんちゃんを連れてくるくらいだから、自家用車でくるお客様の方が多いわよね?」
どうやらなにか心当たりがあるらしい玲は、質問する声の調子も心なしか前のめりだ。
「そうだねぇ。逆に駐車場があった方が助かるかもね。でも、ホントに無理」
具体的なビジョンもないまま、なにか良い案が浮かぶのでは…程度で訪れたつかさには思いもよらない大きな提案だった。
「まぁ任せなさいな。ちょっと、私に考えがあるのよ…悪いようにはしないわ」
「でも、とにかく、お金ないから…」
「そこはね、なんとでもなると思う」
既に玲の頭の中では、プランが出来上がっているようだった。
「そういえば、慰謝料はもらわないの?」
「あぁ、だって。お互い同意の離婚だし、そういう問題で別れたわけじゃないから」
「そういうものなの…? 必ずもらえるものかと思ってた」
「そりゃ玲のところみたいに資産が多ければ当たり前かもしれないけど。それこそ家を残してもらえただけでもよしとしないと、ね。…でも、通帳に入ってる分はくれるって言ってたかも。でもまだ、他の手続きもあって通帳まで確認できてないの」
「ふーん」
納得がいかない様子の玲に、
「ところで、玲の方はどうなの? 例の母娘問題…?」
これ以上続けると「慰謝料請求」の話に持ち込まれると思ったのか、つかさは話題を切り替えた。聞いていいのかわからないけど…と、付け加え、
「ホテルの件は聞いたけど…」
「あぁ…」
そのことね…と「やっぱり綾香ちゃんがいなくてよかったわ」とこぼした。
「実際のところ解決はしたの?」
勢いで家出しておきながら我慢ができなくなって帰った…とはいうものの、本題である「娘との喧嘩」が丸く収まった、とまでは聞いていなかった。
「どうやらね、心無いだれかに吹き込まれたらしいのよ。出生の秘密というものを…」
片肘をかかえるようにし、もう一方の手で頬杖を突くような形で口元を押さえる玲の本音は、だいぶ堪えているように見えた。
「えぇ…?」
そんな密な内容だったのかと目を見張る。
「あぁもちろん、父親が違うことは知っているのよ。でも、素性まではね。20歳になってからと思っていたから…まあ覚悟はしていたのだけれど。いざ本人の口から切り出されると、やっぱりね…」
「そりゃ、そうだよねぇ…」
切り出したものの、話題を間違えたのでは…と反省するつかさ。
「『ママにはあたしの気持ちはわからない!』っていう言葉の裏には、『ママにはわたしがいらない…(子)』と本音があったわけなのよ」
「そんな…」
「だからきちんと話したわ。私が世間知らずで、粋がって駆け落ちして、勘当されたことがある…なんて話を、ね」
「それで?」
「黙って聞いていたわよ。御門(みかど)の家からは全く想像のつかない母親の昔の話を聞かされて、どう思ったのかは知らないけれど。…あの時は必死だったし、お互い若かったとはいえあの時間に嘘はなかった。知らなければ知らなくていいことかもしれないけれど、それを否定してしまったら全部が嘘になってしまう。あの子が生まれてきたことも、私が恋したことも…。後悔なんかしていないし、父親のことだって、残念な結果になってしまったけれど、彼には彼の事情も、主張もあった」
(そう、確かに。私は恋をして、しあわせの中で娘を授かった)
少し興奮してしまったのか、こみあげるものを抑え込むように、玲は汗をかいたグラスをつかんでウーロン茶を喉に流し込んだ。
「恋、してたんだ」
「そうよ。私だって女ですもの」
「そりゃそうだ」
「あの子を産んだことだって、逆にあの子がいたからこそ私は自分の甘さを自覚して、娘に恥じない母親になろうと頑張れたのですもの」
玲はまぶしい夏の日を思い返すように遠い目をして見せた。
「そうだよね。今じゃ5人のママだし」
「それはね、私がいちばん驚いているわ。でも、だれにも想像できなかったことでしょうね…」
高校時代のクールな玲を思えば、今目の前にいる穏やかな顔をしている玲を想像することは、本当に天と地ほどの差だった。
「確かにね…」
「でも、しあわせだわ…。本当に」
「きちんと話せたのね」
「ええ。どの程度伝わったのか、納得なんかはしていないだろうけれど、私の気持ちは話したわ。状況はどうあれ、私があの子を愛していることには変わりないもの。いらないだなんて…まして否定するだなんて…」
(ショックだった…。なにより自分を否定されたようで)
玲は喉元を押さえるようなしぐさをし「そうね…」と自分の気持ちに同意するように続けた。
「私の方が、自分が思う以上にダメージを感じたみたい。だからどうしようもなくなって家出してしまったけれど、するべきじゃなかったと反省しているわ」
私もなにかあれば家出だなんて、成長しないわね…そう言って玲は笑った。
「そうそうあることじゃないしね」
「そうね。でも、私もあの子の年の頃は同じようなことを考えていたのよね。お父様から愛情らしいもの、感じたことなんてまったくなかったから。だから余計に、正直に話すべきだと思ったのよ。私には追及できなかったことを…。でも…」
(あのとき、私を見つけたときのあの姿だけは忘れないわ…)
玲だけの逃亡劇なら、自分の部下を誰かしら見張りにつけ、常時連絡を入れさせることも簡単だったのだろう。だが、知恵のある者と駆け落ちし、部下の目をすり抜け逃げる玲を見失ってはじめて、玲の父親は事の重大さに怯えたのだ。玲自身父親の保護下に置かれている間は、多少気持ちに余裕があったのだろうが、逃げ場がないと承知しながらも父親の影のないところをさまよっていた間の心細さを考えたら、それまで感じたことのない孤独と恐怖だったと言えよう。
「話さないと解らないこともあるわね…私も羽子(わこ)のように、なりふり構わずお父様にかみつけばよかったのかもしれない」
当時のことを思い出し、ずいぶんと子どもだったと反省する。
金もつき、行き場を失った田舎のボンボンと、世間知らずのお嬢様の逃亡など、そう長く続くものではなかった。だが、迎えに来た玲の父親は髪を振り乱し、威厳の欠片もないくたびれた形相をしていた。御門グループを担う総裁の顔ではなく、当たり前に娘を心配するただの父親の顔をしていたのだ。
「そうかもしれないね…。あたしは、そういうこと感じる間もなく両親と別れることになっちゃったけど。我慢せずに言いたいことを言っていたらよかったのか…逆に両親がどんな風に思っていたのか、今になって知りたいと思うこともある。あの頃は頭でわかったつもりでいたけど…本当のところは理解できてなかったのかもしれない」
高校時代のあの頃は必死で、そんなこと考える余裕もなかった。子どものいないつかさは、目の前で優しい目をして微笑む玲が心底羨ましいと思った。
「親になってみないと解らないことってあるのよね…」
そう言って玲は小さく笑った。
「親のありがたみとか…?」
「そうそう。知りたくなかった気もするけれど、親になっちゃったんですものね…私も」
まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します