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小説『オスカルな女たち』41

第 11 章 『 感 情 』・・・1

     《 やさしくなれない 》


「やっぱりまこちゃん、ダメみたい。これから帝王切開だって」
スマートフォンに指を滑らせながら戻って来たつかさは、席にはつかずに「どうする?」と、正面のふたりを交互に見た。
「この前『産気づきそうな妊婦さんがいる』って言ってたけど、さすがにお医者さんの勘はするどいね」
真実(まこと)の仕事ぶりに感心する織瀬(おりせ)。
「相変わらずね。毎年誕生日は『雨女』ならぬ『術女』…」
まったくタイミングの悪い…そう言いながら玲(あきら)は肩にかかった髪を払い、
「それじゃぁ、お祝いはいつと決めずに、この次会ったときにしましょう。いつも通りに」
と真実を労う言葉を付け加えた。
「いつも通りね」
そう言ってつかさはスマートフォンをバッグに収めた。
「そうだね…。今日はどうする?」
上目使いで様子を窺う織瀬に、
「このまま、飲めばいいんじゃない? いつも通りに」
と玲が微笑む。
「じゃぁ、飲もう!」
言いながらつかさはカウンターに向かって手をあげ、ようやっとそこで席に着いた。
「それにしてもまこちゃん、最近休みなしだね。忙しいのはいいことなんだろうけど…」
つかさの言葉通り、近頃の「吉澤産婦人科医院」は出産ラッシュのようで真実は織瀬と一緒にいるどころではなかった。
実際、先日のつかさの「トリミングサロン」の開店日も顔を出して早々に呼び出しがあり、話もままならないほどだったのだ。
「女医って需要があるのかもね」
恥ずかしさを考えれば…と織瀬がいい、
「あんなにぶっきらぼうでも?」
つかさが続いて、3人は顔を見合わせて笑った。
「つかさの義妹さんは? 順調なのかしら?」
「カフェスクールに通ってるって言ってたよね?」
「あぁ、始めた当初はつわりで大変だったみたいだけど、もうすぐ終わるんじゃないかな? 今はコーヒーの香りが心地いいくらいなんだって」
少し自嘲気味に答えるつかさ。
「つーくんのお嫁さんになるべくして生まれて来たんだねぇ…」
羨ましそうにしみじみと答える織瀬。
「あれからマコの様子はどう?」
織瀬のマンションに転がり込んだ辺りから「様子がおかしい」と懸念していた玲も、織瀬の入院以来連絡が取れていないようだった。
「どう、なんだろ。でもあたし、来週呼ばれてるんだよね」
自分のことで精一杯だった織瀬には、玲ほど敏感に真実の変化には気づけずにいた。だが、自分の仕事休みに「時間があれば出てきてほしい」と連絡を受けていたことを告げる。
「そう? じゃぁ、ちょっと気にしておいてくれないかしら」
玲は普段から「余計な詮索はしない」主義だが、今回の真実の態度にはどうにも引っ掛かりがぬぐえずにいるらしい。
「うん。あたしも気になるし…」
さんざん世話になっておきながら、気遣えない自分を恥じる織瀬。呼び出しがなければ、自分から真実を訪ねるつもりでいた旨を話した。
「おりちゃんは平気?」
体調を気にして声を掛けるつかさに、
「うん。…どうせ、待ってる人もいないし」
と、当の織瀬は「帰りの心配」と受け取ったらしい。「待っている人がいない」現実に、余程そちらの方が堪えているとみえる。
「相変わらずなの? 旦那様…」
玲がそう問いかけたところで真田が伝票を片手にやって来た。
いつもの、お願い」
即座につかさが答える。余計なことを言わずとも、真田にはこれで通じた。
「はい。…真実さんは、今日はこられませんか?」
そう問う真田に、
「ちょっと無理そうね」
と、玲が答える。
「じゃぁ、真実さんの分は次回まで取っておきますね」
真実の誕生日である今日は〈ポッキー&プリッツの日〉。
毎年『kyss(シュス)』では、この日訪れた客にサービスの一環としてポッキーをひと箱ずつ配っていた。
「私たちの分もその時でいいわ。大丈夫よね?」
「えぇ。…おつまみはいかがいたしましょう?」
「そうね。〈生ハムとナッツのサラダ〉と〈チーズ〉…〈胚芽クラッカー〉をお願い」
そう言って玲はほかのふたりを窺う。
「あたし〈タラモサラダ〉が食べたいかな。クラッカー多めにお願い」
そう、つかさが続くと「あたしは、いいや」と、織瀬はただ頷くだけに終わった。
「承知いたしました」
一礼して去っていくいつもと変わりのない真田の態度に、織瀬は心なしかそわそわしているようだった。
「今日はどんなカクテルが出てくるだろうね?」
そんな織瀬の様子を受け、つかさが微笑んでのぞき込む。半ばロシアンルーレットのような織瀬のための真田セレクトのカクテルも、ここへ来る楽しみのひとつになっているのだ。
「もう、つかさは…」
拗ねた顔をして見せる。
とはいえ、それは織瀬とて同じことだった。
「このメンバーっていうのもなかなかないわよ?」
社内での不倫問題が発覚し人事に追われて珍しく汗をかいたり、かつての御学友で兄嫁である『巻き毛のオスカル』こと〈明日香〉が家出してマンションに押しかけてきたりと、この1ヶ月気遣いの多かった玲は「ようやく落ち着いたかしらね…」と含んだ言い方をした。
「そうかも…ここ来るのも久しぶりだしね」
そう語るつかさは引っ越しからの開業準備で日々を費やし、個別に連絡を取りながらも4人で顔を合わせたのは3日前の開店当日だったことを思い出す。
「そうだね。お互い、先月はいろいろとあったし…」
なんてことないように語る織瀬ではあったが、罹患歴のある〈子宮筋腫〉の思わぬ病の進行から〈子宮全摘出〉という結果を招き手術入院を余儀なくされた。挙句愛犬の体調不良と、それをきっかけに夫との不和に対する意外な真相を知り、身体的にも精神的にも耐えがたい時間を過ごした。
「溜め息はなしよ」
そんなふたりの憂いを察したのか、玲は両手をあげてふたりを制した。
「そう、だね。思わずため息でそうだった…」
胸元を押さえ、真顔で返すつかさに、
「知ってた? 今日は『ポッキーの日』だけじゃなく他にもいろんな記念日があるのよ」
玲は得意気に語りだし、
「今日は、祝日じゃないのがおかしいくらいに〈記念日〉の多い日なんですって。中国じゃ『独身の日』だそうよ、つかさ」
今となっては晴れ晴れとしたつかさの身上を讃える。
「独身の日? へぇ、そんな記念日まであるのね」
「なんの接点もない数字の並びだから?…なんでもお祝いだね」
人差し指を立て〈1〉を4つ並べるようなしぐさをする織瀬。
「まぁいろいろな捉え方があるらしいけれど、語呂がいいからじゃないかしら。それでなくとも今は、毎日いろんな記念日があるらしいけれど…。あなたたちの誕生日だって、きっとなにかの記念日になっているはずよ」
大人になればなるほど、子どもの頃のようにワクワクすることもなければ、それほどの楽しみもなくなるものだ。
「そう思うと、特別感増すね」
「あたしの誕生日は『スイカの日』だった気がする~」
なぜか不満げに答える織瀬。
「スイカ? かわいいじゃん」
「由来がかわいくない。『な(7)つのよこづ(2)な(7)~夏の横綱~』なんてさ」
「へぇ…やっぱり語呂合わせなんだね。玲は誕生日いつだっけ?」
当然のように振るつかさだが、
「エイプリルフールよ」
こちらもさらに憮然と答える玲に、
「そうでした、そうでした。毎年お兄さんたちにいろいろとやられてたんだっけね…」
失言でした…と肩をすくめる。
今日のように3人の誕生日をいつも快く祝ってくれる玲だったが、自分の誕生日となるとことさら嫌悪感をあらわにする。
幼い頃、毎年「プレゼント」と称し兄たちからの洗礼にも似た苦行を強いられていたことを思い出し腹が立つというのだ。それを考えると案外「兄妹の接点がない」とは言い切れないのでは…と思うつかさだったが、玲本人にとってみれば苦い思い出でしかない。

タラモサラダ (2)

「つかさ、お店の方はどうなの? まだ落ち着かないだろうけど…」
それ以上話が広がらないよう、玲は話題を変えてきた。
「まだ3日だしねぇ。でも、お陰様で今月の予約はぼちぼち…。ぁ、そういえば〈自称・玲ファン〉が予約にきたよ」
「え、秋山君? 彼、ワンちゃんなんか飼ってたの…」
意外ね…と、想像がつかないようで怪訝な顔をする玲。
「それがさぁ。あ~んな大きな体して、かわいらしい真っ白なポメラニアンでね。ふふっ…名前がね、」
言いながら先に笑ってしまうつかさに、
「まさか『玲』とか?」
と、期待に声を弾ませる織瀬。
「残念ながらそうじゃなかった。男の子だったから」
「それはほっとしたわ」
玲も内心、自分の名前を疑って胸をなでおろす。
「なんて?」
愛犬家の織瀬には興味のそそる話題だ。
「レオよ。…〈Mr.レオナルド・マイルド〉っていうの、すごいでしょ」
「みすたぁ?」
「れおなるど?」
「・まイルド。…テディカットにしてみたいんだって言ってた」
「テディ? 秋山君が?」
3人は顔を見合わせ、きゃらきゃらと声をたてて笑った。
「すごいネーミングセンスね」
「えーどんなひとだろ? 開店日に来てた?」
「昨日きたの。『ご挨拶が遅れました』って菓子折り持って」
「あら、気が利くじゃない」
「玲を立てたつもりなんじゃな~い? 本人は、そうねぇ…ブルテリア、いやアフガンハウンドって感じかな?」
相変わらず人の特徴をうまく捉えられないつかさはそう言って玲を見た。
「やだつかさ、やめてよ。次に会ったとき笑っちゃいそう…」
「アフガンハウンドなんて言わないでよ~」
笑いながら告げるつかさに、
「言えるわけないじゃない、もう…」
そんなこと…と、制する。
「お待たせしました。なにか楽しい話題でも?」
真田がドリンクを運んでやって来た。
「ぁ、真田くんはなにか動物飼ってる? もしくは、飼ってた?」
目じりを押さえながらつかさが尋ねる。
「え…。あぁ、うちは国道沿いなんで…留守中ストレスになるかと思い今は飼ってません」
「国道沿い?」
「はい。それに下がバイクショップなんで、結構うるさいんですよ。でも昔〈リクガメ〉を飼ってました」
玲にはピルスナービール、つかさにはデキャンタとグラス、
「リクガメ?」
「想像に難くないわね」
つかさと玲を交互に見る真田。
「えぇ。そうですか?」
そして織瀬には、
「こちらは紅茶のリキュールを使った〈ダージリンクーラー〉です。もしよろしければ温かいものもできますよ」
それはアルコール度数の低いカクテルだった。
「ぁ、ありがと…」
「名前は?」
続けて問うつかさに、真田は少し躊躇したあと「…テリーヌです」と小さく答えた。
「てりーぬ?…って、よく前菜とかに出てくる…?」
「笑っていいですよ…。子どもの頃のことですから」
注文の皿を並べ、涼しげに去っていく真田の背中に、
「テリーヌだって…料理人らしいっちゃらしいけど」
そう言ってつかさがクスリと笑うと、
「子どもの頃が想像つかないわ」
と、目を見張る玲。
「いろんな名づけ方があるね」
おもしろい…と言って織瀬が小さく笑った。
「ここ、テリーヌ置いてないわよね?」
「やだ、玲。本気で言ってる?」
「冗談よ。…じゃぁ、ひとまず順調なのね。つかさは」
「うん。今のところはね…。そういえばちょきは? あれから体調はどう?」
デキャンタからワインを注ぎながらつかさが織瀬を見遣る。
「うん。だいぶ落ち着いたよ。ちゃんとご飯も食べてるし…」
「そっか。ならよかった」
「自分のことばかりで気にしてあげられなかったから、すっかり甘えん坊」
織瀬は余計なことは言わず、ただ申し訳なさそうに答えた。
「それは仕方ないわよ」
これまでの織瀬の動向を憂い、玲が優しい表情を向けた。
「旦那様、帰ってないんだね」
先ほどの織瀬の「だれも待っていない」という言葉を思い出し、つかさが静かに続いた。
「うん。…離婚も、本気なのかどうか。退院の日も仕事でこなかったから」
「来なかったの?」
「最近、意識的にか解らないけど外注の仕事も受けてるみたいで…忙しくしてる」
「どういうつもりかしら」
真実ほどではないにしろ、この頃の幸(ゆき)の動向に関し少しずつ見方が変わってきている玲。
「これまでのことを考えると、自分からなにかアクションを起こしてくるようなタイプではないよね」
つかさも玲に同意する。
「どうなんだろ、なにも考えてないのかも。でももう無理。幸といるとつらいし、カッコ悪いことばっかりなんだもの」
ため息を漏らす織瀬。
「カッコ悪い?」
「浮気とか、離婚とか、今までまるで出てこなかった言葉が目白押し…」
そう言いながら織瀬は、自虐的に笑った。
「そんなこと…」
そうは言いながらもつかさ自身、自分のことはさておき「織瀬夫婦にはありえない」と思っていた現状だけに言葉がない。
「連絡はとれてるの?」
「電話すれば話すけど」
「離婚、するの?」
「解らない。離婚なんて考えてもみなかったから」
そう言って織瀬は、手元に視線を落とした。
〈ちょきん〉を動物病院に連れて行った夜、何気ない会話の合間に〈離婚〉という言葉をいとも簡単に発した夫のことを思い出す。
・・・・あれは、用意されていた言葉だったのだろうか。
「ずっとタイミングを計ってたのかな。いつから考えてたんだろう…」
自問に対するさらなる問いかけだった。
「なに? 離婚のこと?」
だが、そんなつかさの言葉が耳に届いていないかのように、
「だって、ずっと浮気してると思ってたわけでしょ?…だけど、最初から愛されてなかったのならこの結婚はいったいなんだったの? わたしたち10年も一緒にいる意味があったの? 婚姻の事実があったってだけで全部嘘だったんじゃないの?」
一点を見つめたまま捲し立てる。
「おりちゃん…」
「でも時間だけは過ぎてる…嘘じゃなかったのならあたしが悪かったの? 全部あたしのせい? 結果子どもができなくてよかったってことなの? これは運命? 運命だったら罰が当たったってことなの? あたしはこれからどうすればいいのよ」
「おりちゃん、おりちゃん…!」
矢継ぎ早に続ける織瀬には、つかさの声が聞こえていないようだった。
「織瀬…」
玲に肩をつかまれ我に返る。
「…あ」
顔をあげてふたりに気づく
「あぁ…ごめん」
一瞬、どこにいるのか解らなくなったかように視線をきょろきょろとさせる。
「ごめんね、おりちゃん。不用意なこと言って」
「ぁ、ぅぅん。ごめんなさい」
「あなた、ひとりでいて大丈夫なの?」
「ごめん。トイレに行ってくる…」
途端に自分が恥ずかしくなったのか、頬を押さえて席を立った。
「ホントに、ひとりにしておいて大丈夫かしら」
「うん。ちょっと心配…」
そう言ってふたりは織瀬の背中に視線を投げた。

ガラスのハート

(ダメだ…)
最近、少しのことでイライラする。
なにを聞いても、皮肉に聞こえてしまう。
気を遣われると、体よく遠ざけられているように感じる。
人の優しさが善意ではなく、社交辞令としか受け取れない。
そして・・・・   
全部「子宮がないから」と、結び付く。
(そんなわけはない)
足早にトイレに駆け込み洗面台に手をつく織瀬。
(あぁ…いやだ、いやだ)
解っている。これはひがみだ。醜い心の澱み、妬み。
つい…と顔をあげ、目の前の鏡に映る自分を見ながら「醜い顔をしている」と思う。
いやな記憶がよみがえる。また独りぼっち…
(そんなことはない)
でも、何度打ち消してもぬぐえない。
どうして・・・・   
どうして、どうして、どうしてあたしだけ!
今までは仕事をしていれば大抵の嫌なことはリセットできた。だが、他人のしあわせをプロデュースすることに今は喜びを感じられない。
(どうしよう…)
わたしは醜い。
わたしは汚い。
わたしはだれからも必要とされない女。
女・・・・。

 女だからいけなかったの?
 女だからパパはあたしがいらなかったの?
 女だからママはあたしを捨てたの?
 女だから、愛されないの?
 女なのに、愛されたいと思っちゃダメなの?

(…わたしはナンダッタノ?)
次から次へと湧いてくる言葉にかたく目を閉じかぶりを振る。
「もう考えるの疲れちゃった」
髪をかき上げ、そう鏡の中の自分に語りかけた。
蛇口をひねり、手を濡らす。左手薬指の指輪の跡を見つめて唇を噛みしめる。
強く、薬指の付け根を擦りつけて洗う。
10年分の記憶を引き剥がすかのように激しく引っ掻いた。
「ぅぅ…っ」
無意識に涙がこぼれる。
「なんで、取れないの…」
そう言いながら真っ赤になっていく指をこすり続けた。

画像3

少し時間をおいてトイレを出た織瀬は、席には戻らずまっすぐと真田のいるカウンターに向かって歩いていた。
顔を背けたまま真田の前に立つ織瀬。
「先日は…突然電話してしまってごめんなさい」
それはひとりごとのように静かに吐き出された。
「いえ、嬉しかったです」
真田も同様に、グラスを磨く動作の延長のように答えた。
「でも、あの。ちょっといろいろと状況が変わって…」
真田の目の前の席に腰掛け、子どもの言い訳のように顔を見上げた。
「保留…ですか?」
チラリと、視線だけを返す。
「…ごめんなさい」
それを受け、うつむく織瀬。
今日ここへやってくるまで、自分から言い出した言動について「訂正」しようかすまいかとずっと悩んでいたのだ。
「それもなんとなく想定内でした」
様子が違ってましたし…と続け、織瀬を見る。
「ごめんなさい、いい加減いやになるよね」
なにもかもお見通し…相変わらず真田の勘の良さにはかなわない。
「そんなことはありませんよ。立場は解っているつもりなので…」
それはやはり、こちらが〈既婚者〉だということを指してのことだろうか。
「すみません」
「そんなにあやまらないでください。おかしな提案をしているのはこちらの方ですし」
「それでも…! 変な電話しといて…もう、呆れられちゃってるかと…」
言ってしまって、拗ねた自分を恥じ真田の顔を見上げると、
「なんで笑ってる?」
真田が口元に手を当てている。
「いえ。…かわいいな、と思って」
「も~。そういうこと言うのやめてくれないかなー」
だが、いつも通りの織瀬に戻れた。そして「もっと、考えないで行動すればよかった」とつぶやいていた。
「深く考えなければ…考えずに言葉だけを受け入れていたら、こんなに面倒なことにならなかったのに…」
もっと単純に…そう告げる織瀬に、
「それじゃぁ行きずりと同じです。『考える』ということはそれだけ真剣に受け止めた、ということにはなりませんか?」
真田は冷静に返した。
「そうだけど…」
(余計に複雑になるじゃない…)
ちょっと不貞腐れた顔をする。
「真田くんて、年下なのになんだかおじさんみたい」
ぼそりと言ってしまって口をつぐむ。
「ごめん…」
「よく言われます」
「そう、なんだ」
ようやっと自然の笑みがこぼれた。
「大丈夫です。オレはいつまででも待ちますから」
「待たなくてもいいのに…」
(そういうの、その言葉に甘えてしまう。期待、してしまう)
「オレの勝手ですから。お気になさらず…」
そう言って微笑む真田は、とてもやさしい目をしていた。
(あぁ…)
もう、本当にこのひとは…と、複雑な気分にうなだれるしかない織瀬だった。
「それがあたしを苦しめてるとは思わない?」
だが、そう悪態をつきながらも、まんざらではない自分に気づいてしまった織瀬は、なにを言っても言い訳のようで体裁が悪い。
「迷惑ですか…」
「そういうこと、口に出して言わないで! 答えに詰まってるのが解らない?」
泣いてしまいそうだ。
「すみません…」
「だから、謝らないでよ」
立ち上がり、きびすを返す。
「織瀬さん…」
声に立ち止まり、
「ごめんなさい。少し、甘えすぎなの、わたし。もう少し、」
考えさせて…と言おうとして振り返る。
充分考える時間はあったのだ。これ以上の棚上げは、真田にとっても自分にとってもいい結果をもたらさないと悟った。
「さっき言ってたあたたかいカクテル、お願いしてもいい?」
「…承知しました」
(もう、終わりにしよう…)
いい加減他人に甘えるのはよそうと思う織瀬だった。いい加減、いい大人が、女であることにかまけ、翻弄されているようなふりをして自分を誤魔化すのは卑怯だ。それほどまでの女なら、こんな事態にはなっていない…と自分を卑下した。

パーティ

一連の流れを見ていたつかさと玲は、席に戻った織瀬に声を掛けられずにいた。
これまで、自分たちといるところでとったことのない行動に驚いたからだったが、そんなふたりに織瀬は、
「ごめんね。取り乱して…」
自分の行動に対し、静かに反省の言葉を述べるだけだった。
「そんなことはいいけどぉ、」
今のはなに?…と、ふたりの好奇の目が織瀬に訴えている。
「ちょっとね…。こないだ、いたずら電話かけちゃったから。謝って来たの」
少し潤んだ目でそう答えた。
「いたずら電話!?」
意外な言葉に目を見開くつかさ。
「あら、おもしろいことするのね」
そっけなく答えていても、驚きを隠せない玲。
「だって…」
(だって、最近のわたしどうかしてる)
少し間をおいてから、
「こないだ、玲のところで明日香さんと話をしたでしょう? 話をしたっていうか、一方的にあたしが喋ってただけだけど…」
織瀬はうつむいたまま、ふたりの顔を見ないようにして話し始めた。
「えぇ。その節はありがとう。お陰様であちらはうまくいっているようよ」
実際、あれから明日香がどうなったのかは、玲自身知りえるところではなかった。だが、あれ以来なんの連絡もないところにその答えがあるのだろうと解釈している。
「ほらね…」
口元を歪め、カクテルを飲み干す。
「まぁ、犬も食わないって程度のことだったし」
玲にとってはそれほど大げさなことではないと流す。
「おりちゃんのおかげなんだね」
「おかげかどうかは解らないけど…彼女、とってもピュアで、本当にお兄さんのこと全身全霊で『愛してる』って感じだった。羨ましいくらいに、疑いもなく。もちろんお兄さんもね」
「それで、なにか感じちゃったわけ?」
珍しくつかさが突っ込んだ言い方をした。
「結婚期間が長いと、自然にそういうのってなくなるものじゃない? 新婚当初のような身から染み出るようなしあわせ?…っていうの? でも、なんだかんだ言っててもこのふたりは『しあわせなんだろうな』って、あの日目の前で見ていて思ったの。揺るぎないなにかがふたりの間にはまだある。…花束抱えて来たお兄さんも、それを受けていじらしいくらいにそわそわしてる明日香さんも、憎らしいくらいだった」
織瀬はひとつひとつ、とつとつと静かに語った。
それは感情を押し殺し、取り乱さないためにあえてそうしているかのようでもあった。
実際トイレに立つ前と後では、織瀬の表情がまったく違う。
「ぇ、花束持って登場したの? それは羨ましいかも…」
「私もあれには面食らったわ。普段の無骨さ加減から、そんな要素微塵も感じられなかったから」
「あたしとは違うなぁって思った。もちろん、ふたりとは事情も違うし、気持ちの上でもまったく及ばないんだけどね。…あんなふうに、自分は無条件で相手を信じていられたのか、自信がなくなった…」
「あのふたりは今どきの夫婦とは違うから」
そもそも恋愛体質が古臭いのだ…と、玲がフォローする。
明日香は半ば家出同然に、板前修行に出ている玲の末兄〈聖(ひじり)〉を追いかけ、何不自由のない自分の生活を捨てたのだ。それまで上げ膳据え膳であった老舗のお嬢様が、好きな男の為だけに中居修行など、よほどの覚悟でなければできないことだったろう。
「押しかけ女房だね」
やるなぁ…と感心するつかさ。当然のことながら、高校当時の明日香からは想像もできない姿だった。
「でも、好きあって結婚したことには変わりないでしょう?」
語気を変えずに答える織瀬。
「それでいたずら電話かけたの? あたしたちじゃなく、真田くんに?」
「うん。なんとなく、八つ当たりした」
「八つ当たり…」
「だって、つかさたちにいたずら電話ってあり得ないし…」
なにを意図してかは解らずとも、なんとなくその行動には意味があるように思えた。
「彼のこと、スキなの?」
「…多分。嫌いではない」
とてもここで「好きだ」とまでは言えない織瀬。だが、意外にもその言葉はすんなりと発せられた。
実際にそれがどういう感情なのか…と追及したくないのも正直なところだった。仕事仲間としての信頼やこれまでの付き合いを振り返り、知人としての行為なのか、恋愛の対象とみているのか、自分の置かれている現状から逃げているだけなのかもしれないとも思えるからだ。
「あたしから、離婚を切り出すべきなのかな?」
そうふたりに問いかけた。
「別れたいの?」
自分から〈離婚〉の言葉を振ったことに罪悪感を覚えるつかさ。
「だって、気持ちのない人と一緒にいられないじゃない?」
つい最近、離婚問題にけりをつけたつかさを見る。だが、つかさには適当な言葉が見つからない。
「織瀬の気持ちはどうなの? 別れたいの? あなたにはもう気持ちはないの? それとも…」
もう、別な気持ちが固まっているのか…とは言えない玲。
「解らない。自分の気持ちも、疑ったことなかった。だけど、改めて聞かれたら…今は答えられない。それに今、幸が戻ってきたところで前と同じというわけにはいかないと思う。お互いに」
「まぁそうだよね。言わなくてもいいこと言っちゃった感じだもんね」
幸が「浮気」などという言葉を口にしなければ、あるいは今まで通りでいられただろうか。
「幸は、本当はどうしたかったのか。あたしは、なににしがみついていたのか…こればっかりはもう少し、時間が必要かも」
「だったら、時間をかけなさい。急ぐことでもないでしょう?」
玲はそっと、織瀬の肩に手をかけた。
織瀬はゆがみそうな顔を必死でこらえ、ただ押し黙って頷いた。

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まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します