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『言説の領界』M・フーコーと谷岡ヤスジ。

2023年 の 日本で生きている、 統合失調症という 持病を持つ 遅筆な漫画家であり、 51歳の 特に知識もないおばさん として、 1970年 12月2日の コレージュ・ド・ フランス にワープしてみた。

それ以前の知識も それ以後の知識もなく、ミシェル・フーコーの『言説の領界』 という 開講 講義を、会場の すみっこで 聞くような感覚で。

この本を読み進めていて 真っ先に頭に浮かんだのは、 日本で 1970年から 1995年 まで 作品を発表し続けた 漫画家・ 谷岡ヤスジ の存在だった。

谷岡ヤスジ という漫画家は、「アサー!」「鼻血ブー!」 の流行語で一時代を築いた 人気 ギャグ漫画家である。
1999年 6月14日咽頭がんで、 56歳という 早すぎる死を迎えた。
訃報は、 新聞・ テレビ などで 大々的に報じられた。
しかし どういうわけだか、 それだけの著名人にもかかわらず、 谷岡ヤスジの コミックスは その時点でほとんどが 絶版扱いになっていた。
一般的に、 ギャグ漫画家の 寿命は短いとされているが、 絶版というショッキングな出来事に 世の中は 驚いたというような、 伝説のような人である。

私の少ない経験と知識を元に『言説の領界』という お話をしている フーコーに、

「 哲学は、 できる限り、 哲学を完成させるものにではなく、 哲学に先行するもの、 哲学の不安を いまだ 呼び覚ましてはいない ものに 接近しなくてはならないのなら、 谷岡ヤスジという人 の漫画は、批判的記述と 系譜学的記述 というものの枠を壊したかもしれません。
彼はおそらく日本のこの時代にしか現れなかっただろう、 タブーというものを エンターテイメントに仕上げた最初で最後の人です。
少なくとも 2023年を生きている私の経験からは、谷岡ヤスジ のような 表現は今後ますます 出来なくなっていくように思われます。」

そんなことを言ってみたいなと思ったのだった。

もちろんこれは、人間という種類の生き物であり、生業として 漫画を描いている私が、人生の中で得た数少ない衝撃と発見から標榜するもので、一年一年、生きるごとにこういった表現が もう おそらく無理なのだと思い知ってゆく、そんな私個人の「 認識論的変異 の重要性」 である。

そしてあくまでも これは 「 人間学的思考」 の範疇から 私が言っている話である。

フーコーの言葉を引用する。

「 連続的な歴史、 それは、 主体の 創設的機能 にとって欠くことの出来ぬ 相関物である。
すなわち、 連続的 歴史とは、 主体から逃れた 全てのものが主体に 返還されうるであろうと 保証してくれるものであり、 時間が 何を分散させようとも、主体は、 組み立て直された 1つの 統一性のうちに 復元されるであろうという 確信を与えてくれるものであり、差異に よって 遠方に置かれている 事物のすべてを、主体が いつの日にか、 歴史的意識のかたちで、 再び 我がものとし、 自らの統御を 立て直して、 自らの住処と 呼びうる ようなものを そこに見出しうるであろうと 約束してくれるものである ということだ。
歴史的分析を 連続的なものに 関する言説に 仕立てる ことと、 人間の意識を あらゆる 生成および あらゆる 実践の 根源的主体に仕立てること、 これは、 同じ 一つの 思考 システムの 両面である」

そういう意味で言えば、 谷岡ヤスジ という 稀有な作家は、 時代の中で、「 人間学的思考」 の中に 閉じ込められてしまっているかもしれないけれど、 けれども私は 谷岡ヤスジの作品は、 現代ではまず ありえないくらい、「 人間学的思考」 からの「 開放の 企てを含意している( 作者本人が意識せずとも)」 ように 感じてしまうのだ。

もしもフーコーが谷岡ヤスジの 漫画を、1970年当時でもまずありえなかっただろうあの表現を読んだなら、

「 全く 歴史ってやつは、 とんでもないことをしやがる! 自分の言葉で言うと、 言説の源泉、言説の 繁殖と連続性 の 原理が 認められると 伝統的に 信じられている場所に、 つまり、 作者、 研究分野、 真理への意志 のような ポジティブな 役割を果たしているように見える形象の 中に、言説の切り分けおよび稀少化 という ネガティブな作用を 認める必要がある、 と思ってきたけれど、 谷岡ヤスジの ような表現が、 子供から 大人まで、 受け入れられる 世の中が来るなんて!」

そうびっくりしただろうし、 私が 古本屋で 谷岡ヤスジの 漫画を買ったのは 20代 の頃だけれども、 子供も大人も「アサー!」 だの「 鼻血ブー!」 だの 言っていた、 それが当たり前だった時代があったのだ と言うんだから、 今現在の 2023年を生きていて、 何ていう 豊かな 時代があったんだろうと 正直なところ 思う。

1976年 の フーコーの『知への意志』 から引用する。

「 従って問題は(…) 分析の 方向を逆転させることなのだ。 一般的に認められている 抑圧から出発したり、 また、 我々が知っていると想定する ものに基づいて測られた 無知から出発したりするのではなく、知を産出し、言説を 増加させ、 快楽を誘導し、 権力を発生させる ポジティブなメカニズムから 出発しなければならない。そして、 これらのメカニズムが どのような条件において 出現し、 機能するのかをたどり、 これらの メカニズムとの 関係のもとで、それらに 結びついた禁止や隠蔽の事実が どのように 分配されるのかを 探求しなければならない」

これは 1976年に書かれた話だけれど、 2023年の今、 まさにこれが大問題になっているような気がする。

私は とある 漫画を 描いた時、 人権団体からの反発を恐れて、 とある 障害に 関する言葉を削除されたことがある。

その時はもはやそういう時代であった。

私は残念ながら 『知への意志』 は未読で、あとがきに抜粋された部分を読んだのみである。

『 言説の領域』という 講義を訳したこの 本の範囲内で、まずパッと 強く思い浮かんだことを とんちんかん かもしれないけれど 書いた。

読み進めていて、 頭に思い浮かび、 読み終わった時、 そしてあとがき を読んで、 やっぱり強く思った こと の代名詞が、 私にとっては谷岡ヤスジ の漫画であった。

2023年で 言い換えるとしたら、 漫○太郎先生の 漫画だってそうかもしれない。

最後に、フーコーが 歴史学について 語っている部分を 抜粋する。

「 もちろん 歴史学は、 ずっと前から、 もはや 出来事を、漠とした等質性 もしくは 厳しい ヒエラルキーを備えた大いなる生成のかたちなき 統一の中での 原因と結果の作用として 理解しようなどはしていません。
出来事に先立ち、 出来事に無縁で、 出来事に 敵対するような 諸構造を見いだすためではありません。
そうではなくて、 それは、 しばしば 互いに 相容れないことがあるとはいえ自律的で あるというわけでもない 多様で交錯した 系列の数々を打ち立てて、 出来事の「 場所」、 出来事の偶然の幅、 出来事の出現の 諸条件を 明確に定める ことを可能にするためなのです(…) 根本的な ものとして現れるのは、 出来事 および 系列という観念であり、 それに結びついた諸観念の一式、 すなわち、 規則性、 偶然、 非連続性、 依存、 変換 といった諸観念です(…) 出来事は、 物質的 諸要素の関係、 共存、 分散、交叉、 集積、選別のなかに自らの場を持ち、 それから 成り立っています。
出来事は、 一つの物体の働きでもその属性でもありません。
しかし 出来事は、 物質的分散 の中に、 その分散が もたらす効果として産出されるのです。
出来事の哲学は、 いわば、 非物体的なものの 物質主義という、 一見すると 逆説的な方向へと進まねば ならないでしょう」

随分 飛ばし たけれど、 続いてまた飛ばして 抜粋する。

「 偶然性、 非連続的なもの、 物質性を、 思考の根底 そのものに 導入することを可能にする 一つの仕掛けの ようなものが 認められはしまいか、と」

この本の中で私は特にも、 この部分にワクワクしたのだった。
そして私は、 こんな風に物事を 見て行きたいなあと 思った次第である。

現代でも しばしば 問題になる セクシャリティ。 倫理や ある種のタブーや ナンセンス。
谷岡ヤスジの 作品たちは、 その 根源を まるで極限的に シンプルに ダイナミックに表現する。

「 一つの論理と 一つの実存 についての問いを提出すること」

それを圧倒的な質量で、 爆弾でも落とす みたいに谷岡ヤスジはやってのける。

それはまるで、「 哲学は、 哲学ではないもののうちに密かに現前して、 事物の」 爆発的表現の中で、 すでに 哲学は語るに落ちている とでも 言わんばかりに。



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