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難波妙の自己紹介。人ってすごい!出逢いは奇跡! 

はじめまして!難波妙と申します。
国際医療ボランティア団体AMDA(アムダ)で活動を始めて21年。これまで多くの災害支援、復興支援、技術交流などを行ってきました。スマトラ島大津波、ハイチ地震、東日本大震災などなど多くの災害支援に関わってきました。2016年には熊本地震で実家が全壊。支援する側とされる側を同時に経験。2018年には現在住んでいる町が西日本豪雨災害で被災。そして2022年のウクライナ人道危機発生直後から、隣国ハンガリーの国境で行っているウクライナ避難者支援活動や2024年1月の能登半島地震支援活動にも参加。様々な活動を通じた出逢いの中から得た私自身の気づきを、現地で採った写真とともに綴ります。

ウクライナからの避難者を受け入れるBeregsurány Help Centerにて。

人道支援のきっかけ。


英語との出逢い。「ありがとう」と「マザーテレサ」

確か小学校低学年だったと思います。路上で外国人が売っていたアクセサリーを母が買ってくれました。その外国人が私に片言で「ありがとう」と。その一言に私の心は震えて、一晩眠れませんでした。これが外国語でコミュニケーションする最初の感動でした。

そのあと、私は小学校から英語塾に通い、中学校入学の時には既に中3のテキストはスラスラ読むことができました。しかし、英語の先生からは嫌われました・・・。勉強から逃げて部活に明け暮れました。

ミッション系の高校でも同様に優先順位は部活。大学進学の時には、選択肢はなく、辛うじて英語を選ぶことに。そこからミッション系の大学へ。

1984年、大学3年の時、マザーテレサが来日されました。その時、私の大学の渡辺和子学長がマザーテレサの通訳をされました。

この時、私が感動したのは、目の前にマザーテレサがいる!ということではなく、マザーテレサ―の心の風景をまるで映し出すような、マザーテレサがそのまま日本語を話しているような錯覚さえ感じる学長様の通訳でした。そして、外国語を学ぶことはこういう事なんだと心がしびれて、身体が固まったことを今でも覚えています。

それでもあまり真摯に英語を学ぶこともなかった私に、大学を卒業するとき、当時の学科長から、「あなたはHumanitarian Workをしてみたら」と勧められたことを覚えています。その時は「へぇ~、そういう仕事もあるのか・・。」と思っただけでした。

普通の主婦からHumanitarian Workの世界へ


その後結婚して、最初の子はすぐに授かったので、次の子がお腹にできたとき、また簡単に生まれてくるだろうと思っていました。社会から隔絶されたような気持ちもあったので睡眠時間を削って英語の勉強をしました。妊娠8週、流産しました。英語の勉強が直接的原因ではなかったけれど、私は愛しむべき命への向き合い方がとても軽率であったことに深く後悔しました。掻把手術のベットの上で、全身麻酔がかかるまでの間、このことを看護師さんに話をしました。「この子は生まれてくることはできなかったけど、きっとお母さんを応援してますよ」とその看護師さんの言葉を聞きながら、私は深い眠りに落ちていきました。その看護師さんのお名前もわからないけど、目だけはしっかり覚えてます。そして、私はこれからは自分の子どもだけではなく、世界の子どもの力にもなれたらいいなとその時、願いました。

そして、月日は流れ3人目が生まれた1か月後。1994年の夏、ある朝、洗濯を干していた時に、「私はこのままでいいのか?」との思いが頭をよぎりました。やっぱり英語だ!とそこから、中学校のテキスト、I,My, Meからもう一度英語をやり直しました。子育てをしながらの勉強でしたが、通信教育から少しずつ自分のできる範囲で勉強を続けました。そして、月に一回の通っていた通訳学校。ある日の課題がNGOについてでした。色々調べていたとき、AMDAの職員募集を見つけました。早速応募!即、落ちました・・。2003年の事でした。その後すぐ、イラク戦争が勃発。世界はこれから大変になる!と思い、ボランティアでもいいから活動させてほしいと再びAMDAの扉を叩きました。最初は、一日4時間、週に3日からでした。
そこから私のHumanitarian workへの世界の扉はどんどん開かれていくことになりました。

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