芥川賞作家が考える、小説と日記の違いについて/ 「やがて忘れる過程の途中」 滝口悠生
「やがて忘れる過程の途中」は、小説家・滝口悠生さんがアイオワに滞在した3か月の日記を本にしたものです。
「あとがき」に、日記と小説の関係性について書かれた箇所があって、それが非常に興味深いのです。小説家が小説を書くとき、記憶をどのように扱っているのか、少しだけ読者に分けてもらえたような気持ちになります。
このあと、滝口さんは、「一方で、日記には書けない事柄もある。」と続けます。
本文に登場する滝口さん本人はリアルタイムを生きています。今日の私たちと一緒で、今、どのあたりにいるのか、これから何が起こるのか、分かりようがない中で手探りで進むしかない。
途中、地震やハリケーンが起こります。これらのことはうっすらとした予感はあるものの、いつも突然です。そういう日々を私たちは暮らしている。そのリアルタイムの不確かさを、その時の自分が書き記しているのが日記だと、作者は言っているのだと思うのです(この2年後、コロナが流行します)。
しかしだんだんと、小説的だとも思えてきます。もしかしたら、これを読んでいる時点でこれらの出来事は「すでに終わって」いて「客観」が入ってきているからかもしれないと、個人的には思います。登場するライターたちも、それぞれのキャラクターや背景がドラマチックで、小説的な人物像に見えなくもない。日記はストーリー性を帯びて、読者を巻き込みながら、緊張は高まり出口へと向かっていきます。
滝口さんは、日記と小説の違いについて触れたあと、こうも書いています。
私は、作者が小説の人だからかもしれないと思いました。小説を書く人として、日々を感じ、観察しているのかなと。しかし重要なのは、作者にとっての「書くことの意味」の方なのではないか …
「思い出す」という行為と「書く」という行為が、(作者にとって)近しい関係だと分かります。この日記の中に登場するライターたちは、様々な国から参加していてそれぞれの背景も書く意味も違います。
自分はなぜ書くのか、どんな行為と近しいのか。
それは「自分にとって大切なものは何か」問われていると同じようだ、と感じました。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
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